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作家

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2009/05/28(木)
栗本薫:作家
栗本薫0

女性小説家、評論家。
日本SF作家クラブ会員、日本推理作家協会員、日本ペンクラブ会員、日本文藝家協会員、
日中文化交流協会員。

中島 梓(なかじま あずさ)と言う他人で(名義で)評論活動や作詞作曲、ピアノ演奏、ミュージカルの脚本・演出なども手がけた。本名は今岡純代、旧姓は山田。夫は元「SFマガジン」編集長の今岡清(現・天狼プロダクション代表取締役)。母方の又従兄弟(祖父の姉の孫)に 梶原一明(経済評論家)がいる。

1976年(昭和51年)7月 - 評論『パロディの起源と進化』(別冊新評『筒井康隆の世界』掲載)で商業誌デビュー。
1976年(昭和51年) - 『都筑道夫の生活と推理』で第2回幻影城新人賞評論部門佳作を受賞。
1977年(昭和52年) - 『文学の輪郭』(中島梓名義)で第20回群像新人文学賞評論部門を受賞。
1978年(昭和53年) - 『ぼくらの時代』で第24回江戸川乱歩賞を受賞。
1979年(昭和54年)9月 - 『グイン・サーガ』シリーズ第1巻『豹頭の仮面』刊行。

1979年(昭和54年) - クイズ番組『象印クイズ ヒントでピント』レギュラー解答者。後に女性軍チームの4代目キャプテンに。
1981年(昭和56年) - 『絃の聖域』で第2回吉川英治文学新人賞を受賞。
1981年(昭和56年) - 12月、今岡清と結婚
1983年(昭和58年) - クイズ番組『ヒントでピント』産休のため一時降板(楠田枝里子が臨時代理)
1984年(昭和59年) - クイズ番組『ヒントでピント』レギュラー解答者に再復帰、6代目女性軍キャプテンに。
1986年(昭和61年)6月 - 初めての歌舞伎作品『変化道成寺』上演。
1986年(昭和61年)- 執筆業専念を理由に、クイズ番組『ヒントでピント』レギュラー解答者を完全降板
1987年(昭和62年)12月 - 初めて演出を手がけたミュージカル『ミスター! ミスター!!』(中島梓名義)上演。
1990年(平成2年)12月 - 乳癌のため入院・手術。翌々年、闘病記『アマゾネスのように』(中島梓名義)刊行。
2005年(平成17年)4月 - 『グイン・サーガ』シリーズ第100巻『豹頭王の試練』刊行。記念イベント『百の大典』開催。
2007年(平成19年)12月 - 膵臓癌で2度目の癌手術。翌年に闘病記『ガン病棟のピーターラビット』(中島梓名義)刊行
2009年(平成21年)5月26日19時18分 - 膵臓癌のため死去。享年56歳

#天はなぜ若く才能のあるものを召し、凡庸なものを残すのか。

乱歩賞受賞直後には、平凡パンチ誌上で中島梓と栗本薫の1人2役対談なる企画が行われたこともある。(お互い他人ですから。)

栗本薫と言えば、『グインサーガ』シリーズ。ローダンシリーズは、チームで書いているから、具印は、一人で第100巻まで書くといって刊行が開始された。月日を重ねていたら、あら、第100巻。お話はまだまだ続きま~す。のはずだったのに。
本編126巻間で刊行済み。129巻まで校了。早川書房は129巻までの出版を決めており、絶筆の130巻途中までの原稿も公表したいとしている。
「グイン・サーガ」は、同社が2004年、「最も長い小説」としてギネス申請、「1冊の本ではない」などとして認められなかった経緯がある。


ローダン派だった私は、グインに手を出さなかったし、考えてみると、栗本薫をきちんと読んだことがない。しかし、日本SF界の中でも、非常に重要な方だと思っていた。重鎮と言うより、まだまだフットワークの軽い方と思っていたので、ショックです。


 栗本薫先生の、ご冥福をお祈りします。→






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2008/08/07(木)
赤塚不二夫 : ギャグ漫画家

1935年、満州国(現・中国)の熱河省に生まれる。
「バカボンのパパ」のモデルであり憲兵であった父親は終戦直前にソビエト軍ににより、抑留。
残された家族は1946年に母の故郷の奈良県大和郡山市に引き揚げる。
1949年、父親が帰国。父の故郷の新潟県に移り中学校を卒業。

1948年、奈良市内の書店で手塚治虫の『ロストワールド』に出会う。
12歳で『ダイヤモンド島』というSF巨編を書き上げ、大阪の三春書房という出版社へ最初の持ち込みを行う。

化学工場に勤務しながら漫画少年へ投稿を続けた。その漫画が石森章太郎の目に留まり、「東日本漫画研究会」が制作する肉筆回覧誌「墨汁一滴」の同人となった。
つげ義春に独立を勧められ貸本漫画家として一本立ちする事を決意。
1956年、曙出版から書き下ろし単行本『嵐をこえて』でデビュー。
“伝説”の豊島区のトキワ荘に移り、第二次新漫画党の結成に参加する。
不二夫は石森のアシスタントの傍ら、数ヶ月に一本程度の少女漫画を描いていた。
横山光輝の出張アシスタントも経験。
1958年、『少女クラブ』増刊号で1作家1作品の原則を守りながら既存の作家で補うために編集者が石ノ森との合作を企画。合作ペンネーム「いずみあすか」[4]名義で作品を発表した。
1958年、、「まんが王」(秋田書店)11月号の穴埋めのために描いたギャグ漫画『ナマちゃん』がヒット。連載化。
1961年、結婚のためにトキワ荘を退去。
赤塚不二夫15
1962年、「週刊少年サンデー」で『おそ松くん』、「りぼん」で『ひみつのアッコちゃん』の連載を開始すると一躍人気作家となる。
1965年、長女のりえ子が誕生。
1966年、『おそ松くん』がスタジオ・ゼロ製作で毎日放送系でテレビアニメ化。
1967年、「週刊少年マガジン」(講談社)にて『天才バカボン』を発表。
1967年、「テレビ番組『まんが海賊クイズ』テレビの司会を担当し、黒柳徹子と共に司会を行った。
1969年、『ひみつのアッコちゃん』『もーれつア太郎』がNETテレビ(現在のテレ朝)系列でテレビアニメ化。
1971年、『天才バカボン』が読売テレビ系列でテレビアニメ化。
1972年、『天才バカボン』で文芸春秋漫画賞を受賞。
1972年、「赤塚不二夫責任編集」と題した雑誌「まんがNo.1」を刊行。1号につき250万円程の赤字を出し、1973年に6号で休刊。
1975年、『元祖天才バカボン』が日本テレビ系列でテレビアニメ化。
赤塚不二夫8
1987年、多忙を極める中アルコール依存症に陥っていた不二夫のサポートをと前妻がすすめたことにより、眞知子と結婚。(ふしぎやな。前妻も、気にはかかってたんだね。)
1988年、『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』がフジテレビ系列で再びテレビアニメ化
1994年、赤塚のアルコール依存症が回復しないことにより、長年アイデアブレーンとして赤塚を支えてきた長谷がやむなくフジオプロを脱退。

1997年、第26回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。
1998年、『ひみつのアッコちゃん』がフジテレビ系で3度目のテレビアニメ化。
1998年、紫綬褒章受章。
1998年、食道がんの手術を受ける。
1999年、『レレレの天才バカボン』がテレビ東京系でテレビアニメ化。
赤塚不二夫10
2002年4月に脳内出血を起こし倒れ、創作活動を休止。
2002年、小学館から『赤塚不二夫漫画大全集 DVD-BOX』(デビューからの作品を集めたDVD全集)が発売された。
2003年、妻の尽力により青梅市に青梅赤塚不二夫会館を設立。
2005年からはオンデマンド出版形式で全271巻が販売されている。(コミックパーク
2006年7月12日には、赤塚を看病してきた妻の眞知子がクモ膜下出血のため56歳で急逝。
赤塚不二夫18
2004年から意識不明のまま植物状態にあったという。
2006年末に眞知子夫人の訃報を取り上げたテレビ朝日の『報道ステーション』で、赤塚が意識不明であると改めて伝えられた。
2008年2月24日にはちばてつやが不二夫を見舞い、似顔絵をブログで公開した。

2008年8月2日午後4時55分、肺炎のため東京都内の順天堂医院で死去した。享年74(満72歳没)。赤塚の訃報はスポーツ新聞各紙が一面で大きく取り上げた他、一般紙も一面で掲載した。また、NHKでもトップニュースで取り上げるなど、手塚治虫、長谷川町子、藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎と並んで多くの世代に親しまれた漫画家であることを印象づけた。


2008年8月7日、赤塚が、コメディアンとしての才能を見抜き、地元・福岡から上京させて、自宅マンションに居候までさせた タモリは 「あなたは生活のすべてがギャグでした。死も一つのギャグなのかも知れません。私もあなたの数多くの作品の一つです」との弔辞を述べた。

実はこの弔辞、「勧進帳読み上げ」(白紙を見ながら、堂々と読むこと)だったらしい。

法名は「不二院釋漫雄(ふにいんしゃくまんゆう)」。


これで、いいのだ!(C)バカボンのパパ


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 元祖天才バカボン スペシャル DVD-BOX I

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2008/06/06(金)
野田 昌宏(のだ まさひろ):SF作家・翻訳家

1933年8月18日、福岡で生まれる。

1976年、フジテレビを退社して、日本テレワークの設立に参加。
1976年、翻訳したA・バートラム・チャンドラー作「ぬれた洞窟壁画の謎」が第7回星雲賞海外短編部門賞を受賞。
1984年、日本テレワークの社長に就任。
1986年、「レモンパイお屋敷横町ゼロ番地」で第17回星雲賞日本短編部門賞を受賞。
1989年、『スペース・オペラの書き方』で第20回星雲賞ノンフィクション部門賞を受賞。
1994年、『やさしい宇宙開発入門』で第25回星雲賞ノンフィクション部門賞を受賞。
1995年、『愛しのワンダーランド』で第26回星雲賞ノンフィクション部門賞を受賞。
1995年、『「科學小説」神髄』で第16回日本SF大賞特別賞を受賞。
1998年、アレン・スティール作「キャプテン・フューチャーの死」の翻訳で第29回星雲賞海外短編部門賞を受賞。
1999年、自ら出演し、SFの歴史を語った『NHK人間大学 宇宙を空想してきた人々』で第30回星雲賞ノンフィクション部門賞を受賞。

2008年6月6日、死去。享年74。

日本テレワーク株式会社として手がけた番組は『ひらけ!ポンキッキ』ほか。
ちなみに『ひらけ!ポンキッキ』の番組キャラクターガチャピンのモデルである。

海外SF(特にスペースオペラ)を多数翻訳、紹介することに大きく貢献。
この功績により「宇宙軍大元帥」杖を授杖する。

SF作家として『銀河乞食軍団シリーズ』に代表される人情味あふれる作品群を執筆。

スターウルフ、キャプテン・フューチャー、ジェイムスン教授、銀河辺境シリーズほかの翻訳。
ちなみにスターウルフの第1話は、早川SF文庫の「SF1」[第1巻]である。


SFを極めろ!この50冊

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2008/06/06(金)
氷室冴子 : 小説家(コバルト文庫)

1977年大学3年の夏に、『さようならアルルカン』を小説ジュニア(現・コバルト)第10回青春小説新人賞へ応募して佳作を受賞。少女小説界へデビュー。

『白い少女たち』の印税60万円を握り締め、家を飛び出して高校時代からの友人と共同生活を始める。学園コメディー『クララ白書』の印税を手にしたときは銀行預金の残高が4万円しか残っていなかった。

宝塚歌劇をモデルにした漫画『ライジング!』の原作を手がけることになり、1981年に宝塚へ移住。
潜入取材を行い、ファンクラブ内では準幹部まで出世。
1982年に札幌に戻り、長距離電話代の請求額にショックを受け1983年に上京。(電電公社の時代だからねぇ。)
これと平行して『ざ・ちぇんじ!』『シンデレラ迷宮』などで好評を博し、『なんて素敵にジャパネスク』シリーズで集英社コバルト文庫の看板作家としての地位を確立。1992年には各種作品で合計600万部が売れている。

古代日本を舞台にした『銀の海 金の大地』シリーズ、半自伝小説『いもうと物語』、『冴子の母娘草』などの作品もある。アニメ情報誌「アニメージュ」で連載した『海がきこえる』は1993年にスタジオ・ジブリでアニメ化されている。

1990年代後半から目だった執筆活動はなされていない。

2008年6月6日、肺癌で死去。


海がきこえる

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