
漫画『あぶさん』の主人公で、ホークスに所属する架空のプロ野球選手。
背番号「90」は、実際のホークスでも球団の配慮で準永久欠番扱いである。
「あぶさん」と呼ばれるのは、「安武」をアブと呼べることと、アブサンと言う酒があることから。
NEWS:引退セレモニー
高校時代
北明高校3年の時、甲子園の予選大会(北信越大会)に二日酔いで出場、サヨナラ本塁打(飛距離155m)を放つもベースランニング中に嘔吐。
飲酒が発覚したために母校は出場停止に追い込まれると同時にプロ入りの道を一時絶たれる。
その後他校の生徒と喧嘩して退学処分となる。
高校退学後、社会人野球・北大阪電気で数年不遇の時期をすごす。
1973年、酒のトラブルによって北大阪電気を懲戒解雇される。
高校野球時代の恩師・岩田鉄五郎と再会し彼の誘いで「契約金50万円・年俸100万円」で南海ホークスにドラフト外にて入団。
南海ホークス時代

1973年にドラフト外で南海入団。自主トレ初日に交通事故に巻き込まれて大遅刻するというアクシデントがあった。
長打力を買われてのプロ入りだったが、インコース打ちに天性の強さを見せる一方アウトコースに弱点があり、当初はいわゆる1軍半に甘んじた。
1軍デビューとなった近鉄戦では杉浦マネージャーの機転でコークハイをひっかけ、グリップにするめを巻いてエース鈴木啓示からポテンヒット。
後期開幕後、スランプに陥り2軍に落ちる。2軍暮らしのさなか、未亡人・山本麻衣子と恋に陥る。
その年の日本シリーズでは粘った上に堀内恒夫にレフトフライに打ち取られ、最後の打者となる。
転機となったのは球界を退いていた藤村富美男との偶然の出会いから。彼と同じ長尺バット=物干し竿を使い始め打撃開眼、以降「物干し竿」は「酒しぶき」とともに彼の代名詞となった。
南海時代は主に代打の切り札として活躍。
度々スタメンでの出場もあったが、生来の酒好きの影響で複数回打席に立つ集中力が持たないという欠点やスタミナ、守備の面に常に不安をかかえる。
1975年の指名打者制導入当初はここ一番のチャンスの切り札としてベンチに置かれた。
1980年には大島康徳のシーズン代打本塁打の日本記録を更新。
1982年には代打だけで落合博満と本塁打王を争った。
1981年には西本幸雄監督の推薦でオールスターに出場し3試合連続代打本塁打を打ち、3試合連続でMVPとなっている。
1977年ペナントレース、広瀬叔功新監督のもとでも代打の切り札、ときに先発レフトとして活躍。
1979年は門田博光のアキレス腱断裂によりスタメンとして開幕戦(対阪急戦)に出場。
そこで4打席連続本塁打のプロ野球タイ記録。
新記録となる5本目がかかった打席では打球を顔に当てて退場、しかし代打・王天上が本塁打を放って持ち越し。復帰後第1戦となった地元・新潟で本塁打を放ち記録更新かと思われたが、その試合は雨のためにノーゲーム、持越しとなる。再度新記録のかかった打席ではロッテオリオンズの村田兆治のフォークを空振り三振を喫した。
1980年シーズン終了後、桂木サチ子と結婚。1981年、長男・景虎誕生。
毎年オフにはトレード話が持ち上がり、
近鉄とのトレード
阪急の西本幸雄監督の勧誘
1980年には巨人の長嶋茂雄もその能力に目を付けて獲得に乗り出したことがあった。
1983年には実際にチームの若返り政策で一度自由契約になってもいる。
結局入団テストを受け30代後半とは思えない成績で南海に再入団。
それからは人が変わったように好成績を残し、レギュラーに定着。
1986年、はじめて4番レフトとして常時スタメン出場、落合と本塁打王を分け合う。ロッテの村田からサイクル安打も記録している。
福岡ダイエー・ホークス時代

福岡への移転時は引退を決意するが、当時の杉浦忠監督の懇願で現役を続行する。
1991年、福岡ダイエーホークスの4番レフトとして自身初の全試合フル出場、史上最高齢での三冠王を獲得(.327 本塁打43 打点110)。
1992年、シーズン序盤にけがをして出遅れるも2年連続三冠王(.339 本塁打45 打点103)
1993年、開幕戦で好調なスタートを切り最後まで義弟の小林満と首位打者争いを繰り広げ、最終打席に野茂英雄(近鉄)からレフト線にツーベースヒットを放ち3年連続三冠王(.340 本塁打46 打点122)。
1995年まで5年連続で本塁打、打点の二冠王。
1994年には王貞治の記録を抜くシーズン56本塁打も記録した。
1996年、椎間板ヘルニアを発症し、長期戦線離脱。この時右打席では痛みが出るため左打席で試合に出場している。
2000年、開幕戦において野村につぐ史上2人目の3000試合出場を達成。
福岡ソフトバンク・ホークス時代
2006年のオープン戦では、WBC日本代表監督に就任した王監督の代理で選手兼任監督となり、対戦相手の東京ヤクルトスワローズ選手兼任監督・古田敦也とのプレイングマネージャー対決を実現している。その試合で両者ともホームランを打った。
2006年7月、王監督が入院した際、王監督より選手兼ヘッドコーチに任命され、同年8月には三塁審判・栄村隆康への侮辱行為及び抗議時間オーバーで退場処分を受けた森脇浩司監督代行の代わりに選手兼任で監督業を勤めた。
2007年は長年慣れ親しんだ物干し竿バットから普通のバットに持ち替え、ボロボロになるまで現役を続けることを決心していた。
しかし、シーズンの途中から長打を必要とするためか、あるいはダントツの優勝候補と言われながらも勝ちきれず、不甲斐ない戦いを続けるチームに喝を入れるためか再び物干し竿を使用。物干し竿を使うことで本塁打も出始めたが、打率が下がるうえ体にも負担がかかる事から、
再び普通のバットに持ち替えた。再度のバット持ち替えにより再び打率は上昇。残り10試合の時点で打率4割(規定打席到達)だったが、自身が望み最後まで出場。そのため最終戦となる西武戦を前にして4割をわずかに割り込んだ。その最終戦では先発の西口文也からヒットを放ち再び4割に到達したが、試合は決着が付かず延長戦に突入する。そして満塁で打順が回り、普通ならここで交代だったが西口がいまだ投げていることから、打席に立つことを志願。そこでサヨナラヒットを放ち、ついに正真正銘の打率4割を達成した。
2006年からは若手に守備機会を与えるためとプレーオフに備えるために外野の守備からはずれ、DHの6番として出場している。
2008年1月31日、今季限りで引退する意向を固めていることが判明。安武の後見人(こと原作者)の水島が明かしたもので、同時に2008年のシーズンは代打に専念することも発表された。
2008年シーズン後、王監督の退任に伴い、現役引退する意思を一時は王監督に伝えたものの慰留され、2009年度も現役を続行することとなった。
「14年間ずっと一緒だったのはあぶだけだが…」と語っているが、実際には本間満も王監督在任中ホークス選手として在籍していた。
2009年、息子の景虎がソフトバンクにFA移籍し、「父子鷹」が誕生した。
NEWS
2009年、レギュラーシーズン最終戦に出場し。相手も、意を汲み、真剣勝負。結果は、代打さよならあホームランと言う、あぶさんの十八番で〆られた。試合後、ファンに引退のあいさつをした。
2009年10月6日には現実の福岡Yahoo! JAPANドームにて、の「福岡ソフトバンクホークス背番号90 景浦安武 引退セレモニー」がマジで開催されている。当日は秋山幸二監督から作者の水島に花束が贈呈され、水島より挨拶が行われた。
37年間ホークス一筋であった。
BBM2002 福岡ダイエーホークス スペシャルメンバー No.SM1 景浦安武(あぶさん)新潟市中央区沼垂西にある越の華酒造で「景浦安武」という日本酒が製造されている。作者である水島新司の許諾済。純米吟醸、吟醸、本醸の3種があり、ラベル柄は純米吟醸と本醸は同じであるため2種類。 (入手極めて難)
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タグ : 景浦安武 あぶさん ホークス 引退 代打サヨナラホームラン

タレント・東原亜希のブログ『ひがしはらですが?』。
そのブログに掲載された有名人やスポーツ選手には災いが起こると一部インターネット上では話題のブログで、「デスブログ」とも言われている。
#東原亜希:デスノート伝説健在。恐怖のデスブログ。
2009年1月4日、そんな「デスブログ」の悪いジンクスを打ち破るために立ち上がったプロ野球選手がいる。
その男とはヤクルトスワローズの由規(佐藤由規)選手。2007年度高校ドラフト会議により、仙台育英高校からヤクルトスワローズに入団した投手で、かつて日本ハムの中田翔、ロッテの唐川侑己と並び「高校ビッグ3」と言われた中の一人だ。

2007年11月、デスブログに名前を書かれながらも、テレビでも共演したことのある東原を、由規は「あんないい人が、そんな汚名を着せられているのは忍びない」と、好感を持った東原亜希のために奮起しているという。
高卒ルーキーとしてプロ初年度は2勝1敗とまずまずのスタートを切った由規であるが、元々『2年目のジンクス』の上に「デスブログ」とは。若さって、いいねぇ。

で、時は流れ9月。
9月7日、右手中指のまめをつぶして降板、出場選手登録を抹消された。
ちなみに、由規がまめをつぶして降板したのは今シーズンですでに4度目。
ここまでの成績も5勝8敗と負け越し、散々な一年となっている。
恐るべし、デスブログ!!

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吉田えり:プロ野球選手
1992年1月17日生まれ
155cm、52kg
右投右打:投手
関西独立リーグ、神戸9クルーズに所属:背番号17
NEWS:監督解任
小学校2年から野球を始め、中学校では軟式野球部で一塁手のレギュラーだった。
高校に進学後は硬式野球部に入部したが、右手甲の炎症により5日で退部。
男子との体力差を感じるようになったが、ナックルボールと言う切り札があったら、太刀打ちできるのではないかと、独自に研究・習得した。
高校の野球部退部後は社会人野球クラブチームの千葉熱血メイキング、西多摩倶楽部に所属。
2008年9月からは女子クラブチームのアサヒトラストでプレー。
2008年の全日本女子硬式クラブ野球選手権で3試合に登板した。
2008年11月2日から11月4日まで行われた関西独立リーグの合同トライアウトを、受験。
最終日のシート打撃では打者4人に対し、ナックルで空振り三振、四球、直球で二ゴロ、直球で遊飛と1回を無安打1奪三振無失点に抑えた。
11月16日に行われた関西独立リーグのドラフト会議で神戸9クルーズより7位指名(全体27番目)を受け、12月2日に入団発表。
⇒ Ranking
日本プロ野球リーグ所属の女子選手としては日本女子野球連盟(1950 - 1951年)以来。
日本人女子プロ野球選手としては鈴木慶子以来。
男子に混ざってプレーする日本初の女子プロ野球選手となる。
9クルーズの中田良弘監督は、ナックルを見て獲得を決意したという。
実はベイスターズの番長とは、横浜の実家が近くで、親交があり、薫陶を受けている。
⇒ Ranking
2009年にエイベックス・エンタテインメントとマネジメント契約を結び]、川崎北高校から通信制のKTC中央高等学院神戸キャンパスに編入。
3月27日に関西独立リーグ開幕戦の対大阪ゴールドビリケーンズ戦(京セラドーム大阪)で9回裏から2番手としてリリーフ登板。先頭打者には四球を与えたが、続く古屋隆行は三振に打ち取った。
⇒ Ranking
2009年7月29日、神戸市内で会見した神戸・広田和代球団社長(48)は、スポンサー獲得イベントなどへの選手派遣に消極的だったとして中田良弘監督(50)=元阪神=の解任を発表。
恩師の電撃解任を受け、吉田えり投手(17)が、チームを離れ「休養」に入ることを表明した。
女子高生投手として話題を集めたえり投手が、大好きな野球と一時決別する。
「体調も良くないので、実家に帰ってゆっくり休もうと思います」と胸の内を明かした。
体調を理由に挙げたが、突然の休養に踏み切らせた原因が中田監督の電撃解任にあったことは明らか。傷心の右腕は30日、実家がある横浜市内に戻ることを決めた。
#番長、フォローしてやってください。
広田社長は「私たちが考えるものと、監督が考える独立リーグが一緒にならなかった」と説明。
中田氏は「(理由が)全然分からない」と困惑の表情だった。
兵庫・三田市内で行われた練習後、知らせを受けたえり投手は「監督さんがいたから野球ができていた」と号泣。今後、現役生活を続けるかどうかも未定だ。
球団は元オリックスの村上真一コーチ(46)に監督代行就任を要請している。
参考
| 順位 | 試合 | 勝利 | 敗北 | 引分 | 勝率 | 差 |
| 大阪ゴールドビリケーンズ | 36 | 19 | 15 | 2 | 0.559 | - |
| 神戸ナインクルーズ | 36 | 16 | 14 | 6 | 0.533 | 1.0 |
| 紀州レンジャーズ | 36 | 17 | 17 | 2 | 0.500 | 0.5 |
| 明石レッドソルジャーズ | 36 | 14 | 20 | 2 | 0.412 | 2.0 |
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東海大相模高時代には1年生から三塁手のレギュラーとして活躍。夏の甲子園に3年連続で出場し、1975年の春の甲子園にも出場している。(このときは、準優勝。)
ちなみに、父、原貢氏が、監督を務める親子鷹。
1976年のプロ野球ドラフト会議の目玉だったが、原はドラフト直前にプロ入りを拒否し、東海大学への進学を表明。
全球団から指名無しという異例の事態となった。
ドラフト直後に巨人のオーナー正力亨と監督長嶋茂雄が「原の獲得に乗り出す」と言明、特に正力が「すでに手は打ってある」と発言した(読売のやりそうなこった。)
それを聞き、東海大学総長が激怒。記者会見を開き
「私の目の黒いうちは原はプロには行かせない、もしプロに行くようなことがあれば原君も死ぬことになる」などと発言し、ちょっとした騒動になった。
東海大学は発足したばかりの首都大学野球連盟に加盟していたが、原目当てのファンが殺到する事態に備えて、加盟校のグラウンドで行われていた試合に加え、川崎球場や横浜スタジアムなどを利用した。
首都大学リーグでは3度の最高殊勲選手、1年生秋のリーグを除く7度のベストナインを獲得。2年生秋と4年生春の2度の打撃三冠王になる。リーグ通算93試合出場、362打数144安打、打率.398、21本塁打、105打点。
1980年、日本で開催されたアマチュア野球世界選手権に、大学生としてただひとり日本代表選手に選出され出場した(3位入賞)。
1980年 プロ野球ドラフト会議において、読売ジャイアンツの藤田元司新監督が4球団競合の末に1位クジを引き当て、巨人に入団。背番号は、高田繁の引退に伴い空いた「8」。
1981年 開幕からスタメン出場、デビュー戦で中日ドラゴンズの牛島和彦から初安打、翌日には小松辰雄から初ホームランを放つ。シーズン当初は二塁手だったが、中畑の怪我により三塁手となり、レギュラーに定着。22本塁打を放ち新人王を獲得。以後12年連続20本塁打以上を記録。
1982年には本塁打数を33に伸ばし、最多勝利打点を獲得。本塁打は2本差、打点は3打点差で、共に掛布に次いで2位。
1983年は初めて打率3割を記録、打点王、最多勝利打点を獲得して巨人の優勝に貢献、MVPに選ばれた。巨人での3割30本塁打100打点は青田昇、長嶋茂雄、王貞治に次ぐ球団史上4人目の快挙だった。
⇒ Ranking1986年9月24日、対広島25回戦で津田恒実の直球をファールした際に左手首の有鉤骨を骨折、残り試合の欠場を余儀なくされた。
この骨折は「事実上、バッター原辰徳は、この骨折の時に終わりました」と後に自らが発言するほどの影響があった。しかし原は後年「あの時の津田との勝負に悔いはない」と、当時から現在に至るまで繰り返し語っている。
1987年、3割30本塁打を記録。
1988年、3割30本塁打を記録。
1989年藤田監督により、左翼手へ転向。同年、デビューから9年連続20本塁打の新記録を達成した。
日本シリーズの近鉄バファローズ戦(第5戦)において、近鉄の吉井理人は4番クロマティを敬遠し、満塁策をとり、第4戦まで無安打の原と勝負する作戦。しかし、原はこのシリーズ初安打となる満塁本塁打を打った。
1992年、一塁手へ転向。
1993年、長嶋茂雄監督により、三塁手に再コンバート。複数個所の故障に悩まされ、プロ入り以来12年続けていた規定打席到達も途切れ、引退した年を除いてプロ入り以来最低の成績に終わった。
1995年現役引退。現役引退試合は、8月に開催された広島戦の延長15回引き分け再試合が10月8日に組み込まれたことにより実現した。セレモニーを含めた引退試合は東京ドームのスケジュールの都合上、デーゲームでの開催となった。
現役最後の試合では、紀藤真琴から左中間スタンドへの本塁打を放つ。最終打席では、広島側の粋な計らいで大野豊がワンポイントで登板し名対決が最後に行われた(結果はレフトフライ)。
巨人一筋15年、ON後の巨人を牽引した四番打者に対し、背番号8を“永久欠番”にとの署名が多く集まり、巨人は“準永久欠番”に制定。
1996年にNHKの野球解説者に就任。プロ野球中継の解説の他、NHK総合テレビの『サンデースポーツ』でメインキャスターを1999年3月まで務める。
⇒ Ranking1999年、長嶋監督のもと、巨人の野手総合コーチに就任し球界復帰。
2000年ヘッドコーチに昇格。
2001年9月27日、長嶋監督に監督室に来るよう命じられ「来年からは原(監督)だ。」と言われる。原はこの年はヘッドコーチだったが実は1998年のシーズン終了後、長嶋は次期監督を原にすることをオーナーと水面下で話を進めていた。勇退した長嶋茂雄の後任として巨人監督に就任(長嶋は10月1日の最終戦まで指揮)。
2001年9月27日、監督に就任。(ただし、10月1日の最終戦まで長嶋が指揮)背番号は83。自分の現役時代の「8」と長嶋の「3」を足した数字であるので選んだと言っている。
2002年、引退も考えていた桑田真澄の先発復帰、故障で一軍から離脱していた河原純一のストッパー転向、長嶋政権下ではスタメンを外れることの多かった清水隆行の1番起用など大胆な選手起用を行い、就任1年目にしてリーグ優勝に導いた。
2002年の日本シリーズでは西武ライオンズ相手に球団史上初の無傷の4連勝という快挙でもあった。
2003年3位に終わり、三山秀昭球団代表との確執もあって、“人事異動”の名目で監督を辞任。巨人軍特別顧問に転任した。
2005年、堀内恒夫監督が成績不振により引責辞任。後任として監督に再任される。背番号は88。
2006年 開幕ダッシュには成功したが、交流戦中盤から8連敗、10連敗、9連敗などの大型連敗(他に敵地18連敗、保護地域外26連敗等)。8月4日にはついに最下位に転落。最終的に4位で終わる。
オフには、黄金期西武ライオンズの頭脳であった伊原春樹が切り札として招聘された。
2006年の選手の相次ぐ怪我による離脱を踏まえ「もういい選手はいらない、強い選手が欲しい」と発言。若手脇谷亮太の頑健さを絶賛する一方、生え抜きレギュラー陣の短期離脱を厳しく叱責している。
2007年 5月2日のナゴヤドームの中日ドラゴンズ戦で創設後通算5,000勝を達成した。大接戦のペナントレースを制した。しかし、セ・リーグのクライマックスシリーズセカンドステージで、ペナントレース2位の中日に初戦から3連敗を喫し、日本シリーズ出場を逃した。
2008年、リーグ戦では、一時は阪神タイガースに13.5ゲーム差をつけられた。(タイガースファンは、当然優勝する気でいた。)オリンピック北京大会の前後から勝ち進み、9月の12連勝で首位に迫り、10月8日に阪神を逆転して首位に立つと、10月10日に2年連続リーグ優勝を達成した。
そしてクライマックスシリーズセカンドステージでは、中日を相手に、アドバンテージの1勝を含む3勝1敗1分で日本選手権シリーズ進出を決めた。予定外の胴上げ(8回)があり、インタビューでは目を潤ませていた。
しかし、直後の日本シリーズではパ・リーグの覇者埼玉西武ライオンズ相手に3勝4敗で敗退した。
北京オリンピックでの星野ジャパンの不振・王監督の固辞から、WBCの監督人事が迷走し、最終的に、原氏に声がかかり、10月28日、日本プロ野球機構より2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督への就任を要請され受諾。
愛称は「侍JAPAN」背番号は83に決定。
2009年3月24日の決勝戦で韓国を5-3で破り、日本を大会2連覇に導いた。
#WBCのシステムは複雑なので、途中の試合に関しては、略。ただ、韓国と5試合戦い、初顔合わせは、コールド勝ち。通産3勝2敗だったことを記述するにとどめる。
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横浜市立北山田小学校2年から野球を始めた。
横浜市立中川西中学校では軟式野球部に所属し、一塁手のレギュラー
3年時に部活を引退した後すぐに硬式野球を始め、父親の勧めで投手に転向。
川崎北高校に進学し、硬式野球部に一時所属するが、右手甲の炎症により5日で退部。
硬式野球のクラブチーム千葉熱血MAKING、西多摩倶楽部、
2008年9月からは女子クラブチームのアサヒトラストでプレーした。
2008年の全日本女子硬式クラブ野球選手権で3試合に登板し、全国大会3位入賞に貢献。
2008年11月2日から11月4日まで行われた関西独立リーグの合同トライアウトを、受験。兄最終の3日目まで残った。
最終日のシート打撃では、1回を無安打1三振無失点に抑えた。
一人目の打者はナックルボールで空振り三振、
二人目の打者には四球、
三人目の打者を直球で二ゴロ、
4人目の打者も直球で遊飛。
11月16日に行われた関西独立リーグのドラフト会議で神戸9クルーズより7位指名(全体27番目)を受けた後、12月2日に入団発表が行われた。
日本のプロ野球リーグに所属する女子選手としては日本女子野球連盟(1950-1951年)以来、また日本人女子プロ野球選手としては鈴木慶子以来となる。
投球フォーム
サイドスロー
最速101km/hの直球。
80km/h台のナックルボールを投げる。
#ナックルボール:ボールの回転がまったくないため、そのときの状況でコースが変わり、投げた本人すら、最終的にどこにいくか分からない魔球。
まったく回転させないと言うのは、フォークなどとはまた別の意味での特殊技能を要する。
⇒ Ranking2009年3月15日、関西独立リーグ・神戸の吉田えり投手(17)が、横浜−オリックス(横浜)のオープン戦の始球式で登場。自慢のナックルでオリックスの一輝から空振りを奪い、観客から大きな拍手を送られた。
“ナックル姫”は、実は、実家が近所だった縁で親交ができた“ハマの番長”こと横浜・三浦が運転するリリーフカーでマウンドへ。
当初は「始球式っぽい」との理由からストレートを投げるつもりで、神戸の中田良弘監督からも「おお、好きにせい」と言われていた。
だが、そんなことは、番長が黙っていない。
⇒ Ranking「吉田えりの代名詞はナックル。関東のファンは見る機会がない。お客さんの期待はそこ」
とストレートにダメ出し。ファンの期待通りにナックルを披露し、
「空振りするつもりだったけど、本当に揺れていた」と一輝を驚かせた。
⇒ Ranking「あんな大勢のお客さんの中で投げたのは初めて。応援がピー、ピー、ピーってすごかったです。すごく幸せでした。100点満点でいいんじゃないですか。いつか、自分がこういう試合で投げられたらいいなと思いました」。
始球式前には、ブルペンで三浦とキャッチボール。得意の魔球を投げ込み、「すごい揺れている。怖かった。変化が不規則だし、(ボールの)回転がなかった」とハマの番長をうならせた。
お褒めの言葉をもらったナックル姫は「すごい選手に言っていただけると自信になります」とまた笑顔。
保護者のような柔らかな目で吉田の成長を見守る三浦は「1月に合同自主トレしたときよりだいぶ体が仕上がっている。ボールもきていた」と合格点をつけた。
⇒ Rankingインタビュー掲載・カード付き
#雑誌のため、売り切れる可能性がありますのでご注意ください。
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