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格闘家

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2010/06/27(日)
エメリヤーエンコ・ヒョードル(露: Фёдор Емельяненко、英: Fedor Emelianenko):総合格闘家

ヒョードル0        

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NEWS:皇帝、歴史的敗戦

1976年、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国ルハンシク州ルビージュネにてウクライナ人の両親の元に生まれた。姉1人、弟2人の4人兄弟。
2歳の時に家族とともにロシア・ソビエト連邦社会主義共和国ベルゴロド州スタールイ・オスコルに移住。
11歳になってサンボ・柔道を始めた。
1991年、高校を卒業。
1994年、専門学校を卒業する。
1995年から1997年まではロシア陸軍の消防隊および戦車軍に所属。曹長で兵役終了。
その後は柔道・サンボ両方の大会で活躍。
当時は後に世界柔道選手権を制するアレクサンドル・ミハイリン(en)とはライバル関係にあるなどヨーロッパではトップクラスの実力を有していたものの、国からの補助金が出なくなったため柔道を続けるには経済的な問題が生じていた。
 「国の支援が続いていれば柔道を辞めずにオリンピックを目指していたかもしれない」
と語っている。

2000年初頭、ニコライ・ピチコフの誘いでヴォルク・ハン率いるリングス・ロシア(現ロシアン・トップチーム)を見学。総合格闘技に興味を持ち、このジムで練習を始めた(このときよりボクシングの練習も開始)。
また来日のためのリングス新人オーディションに参加。前田日明からバラチンスキー・スレンに次ぐ評価を受け日本大会への出場が決まった。
2000年5月、リングスで総合格闘技デビュー。
2000年9月5日には初来日を果たし高田浩也と対戦。開始12秒で左右のフックによる秒殺KO勝利。
2000年12月22日、「KING OF KINGS 2000トーナメント」に出場。Bブロック1回戦でヒカルド・アローナに延長の末、3-0の判定勝ち。同日に行われた2回戦では高阪剛と対戦するも、出会い頭に目尻をカットし、ドクターストップによるTKO負け。フックをかわした後、肘が当たったため(肘撃ちは、反則)。高阪自身はのちに、アクシデントと語っている。

2001年4月6日、ロシアでミハイル・アポストロフ戦に勝利。リングス・ヘビー級王座決定トーナメントに出場。
2001年4月20日、1回戦ではケリー・ショール(en)に勝利。
2001年8月11日、決勝大会に進出。準決勝で本命と目されていたレナート・ババルに判定勝利。決勝ではボビー・ホフマン(en)が左肩脱臼のため棄権し不戦勝。初代リングス世界ヘビー級王者に就いた。
2001年10月20日、無差別級王座決定トーナメントに出場。1回戦で柳澤龍志に、準決勝ではリー・ハスデルに勝利。2002年2月15日、決勝戦でクリストファー・ヘイズマンと対戦。2度のダウンとロープエスケープでポイントアウト勝利、リングス2冠を達成。(リングス最後の興行。)

2002年6月23日、PRIDE.21においてPRIDE初参戦。当時パンクラス無差別級王者だったセーム・シュルトに、判定勝ち。PRIDEデビューを飾った。
2002年11月24日、PRIDE.23において、ヒース・ヒーリングにTKOで勝利。ヘビー級タイトルマッチ挑戦権を獲得。

2003年3月16日、PRIDE.25にて、初代PRIDEヘビー級王者アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラの持つタイトルに挑戦。3-0の判定により勝利。第2代PRIDEヘビー級王者となった。
2003年4月5日、リトアニアでBUSHIDO-RINGSに参戦。エギリウス・ヴァラビーチェスに一本勝ち。
2003年6月8日、PRIDE.26にて、ノンタイトル戦で藤田和之と対戦。チョークスリーパーで一本勝ち。
2009年のインタビューで
 『私に真っ当な打撃を与えたのはこれまでで藤田だけだよ。激しい打撃だったね。
  他の連中とは比較すらできない。』
と回想している。

2003年11月にはミルコ・クロコップとのタイトルマッチが行われる予定であったが、練習中に右手を骨折したため欠場。ミルコ対ノゲイラの暫定王者決定戦が代わりに組まれた。
2003年大晦日には3つのイベントによるヒョードル争奪戦が繰り広げられ、最終的にイノキ・ボンバイエに出場.
永田裕志に勝利。
これに関連して、年末には弟アレキサンダーと共にロシアン・トップチームからレッドデビルに移籍している。後にヒョードルは、チーム代表であったウラジミール・パコージンとの確執があったことを述べている。

2004年、16名によるヘビー級トーナメント「PRIDE GP 2004」に参加。
2004年4月25日に行われた1回戦で2000年のGP優勝者マーク・コールマンと対戦。下からの腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。
2か月後の2回戦でケビン・ランデルマン(対ミルコ・クロコップに勝利)と対戦となり、アームロックを極め一本勝ち。
2004年8月15日、決勝ラウンド。準決勝では、ファン投票で組み合わせが決定され、小川直也との対戦となる。開始54秒で腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。決勝はアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラとの再戦。「人類60億分の1の最強を決める」と謳われたGP決勝は1ラウンド3分過ぎにグラウンドでヒョードルの額とノゲイラの頭頂部がバッティングし、ヒョードルの右眉上が切れて試合が中断。協議の結果無効試合となり、優勝者は決まらなかった。
4か月後の大晦日、「PRIDE 男祭り 2004」にて行われた再戦で判定勝ちし、PRIDEヘビー級王座を防衛するとともにヘビー級GP王者となった。

2005年4月3日、「PRIDE 武士道 -其の六-」でリングスで唯一の敗北を喫した高阪剛と4年半振りの再戦。試合前に高阪は「(ヒョードルには)穴が一杯ある」と語っていたものの、試合ではヒョードルが優勢に立ち、1ラウンド終了時にドクターストップによるTKOでリベンジを果たした。
2005年6月、ロシアのクストヴォで開かれた全ロシアコンバットサンボ選手権に出場し、100kg超級で優勝。
2005年8月28日、「PRIDE GRANDPRIX 2005 決勝戦」にてミルコ・クロコップとのタイトルマッチが実現。最強の挑戦者を判定で退け、2度目の王座防衛に成功。
2005年大晦日に出場した「PRIDE 男祭り 2005」ではズールと対戦。1ラウンド開始26秒の秒殺タップアウト勝ち。

2006年1月26日、強力な打撃ゆえの慢性的な拳の怪我や骨折に苦しんでいたヒョードルは、サンクトペテルブルクの病院で右拳の手術に踏み切る。
2006年6月24日、同じサンクトペテルブルクの病院で、固定していた金属プレートの除去手術を受けた。
この手術のため、「PRIDE無差別級GP」の1回戦と、回復次第ではシード扱いで出場する予定だった2回戦を共に欠場。(ヴァンダレイ・シウバが代役参戦。)
2006年10月21日、マーク・コールマンを相手に復帰第1戦を行った。2Rに腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。
2006年12月31日、「PRIDE 男祭り 2006」でのヘビー級タイトルマッチでマーク・ハントと対戦。チキンウィングアームロックで一本勝ちし、3度目の王座防衛に成功。


2007年3月、総合格闘技イベントボードッグ・ファイトと契約。
2007年4月14日、地元ロシアのサンクトペテルブルク大会に凱旋出場。マット・リンドランドに腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。この大会には当時のロシア大統領ウラジーミル・プーチンや、イタリアの元首相シルヴィオ・ベルルスコーニなど政治家の観戦も目立った。
2007年4月にPRIDEが休止した後は、世界中の格闘技団体がヒョードルの獲得を競っている状況であった。
2007年10月、米国の総合格闘技イベントM-1 Globalと2年6試合の契約を締結。ファイトマネーは1試合につき基本給が200万ドル。これは契約金・ボーナスなどのその他報酬を含めない額であった。
2007年11月10日、チェコ共和国プラハで行われた第31回コンバットサンボ世界選手権100kg超級に出場し、4度目の世界王者となった。
2007年11月11日、ロシアの国家勲章であるピョートル大帝勲章を受章。
2007年12月31日、「やれんのか! 大晦日! 2007」でチェ・ホンマンと対戦、1Rに腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。

2008年2月8日、全ロシアコンバットサンボ選手権100kg超級に出場。秒殺を重ねて、優勝した。
2008年2月15日、コンバットサンボ大統領杯に出場し、100kg級で優勝している。
2008年7月19日、アメリカ合衆国のアフリクションの第1回大会「Affliction: Banned」において、元UFC世界ヘビー級王者ティム・シルビアと対戦。チョークスリーパーを極め、開始36秒で一本勝ち。、World Alliance of Mixed Martial Artsの初代世界ヘビー級王者となった。
2008年11月、主演映画『第5の死刑』の撮影をタイで行った(撮影は12月にクランクアップ)。
2008年11月16日、ロシア代表合宿に参加できないまま、コンバットサンボ世界選手権に出場。100kg超級の準決勝でブラゴイ・アレクサンドル・イワノフと対戦。5-8の判定で敗れ3位に終わった。

2009年1月24日、「Affliction: Day of Reckoning」において、アルロフスキーと対戦。1R3分過ぎ、跳び膝蹴りに対しカウンターで右フックを命中させ失神KO勝ち。WAMMAヘビー級王座の初防衛を果たした。
試合後には
 「危険な場面は無く、落ち着いて戦えた。跳び膝蹴りで彼はミスを侵した」
というコメントを残した。
2009年2月21日には全ロシアコンバットサンボ選手権に出場、100kg超級で連覇。

2009年4月29日、「DEEP M-1 CHALLENGE 3rd EDITION in JAPAN」で来日し、青木真也とサンボ衣着用・打撃ありのスーパーエキシビションファイトを行なった。

2009年8月1日、「Affliction: Trilogy」でジョシュ・バーネットと対戦予定であったが、ジョシュが試合前のドーピング検査で陽性反応が出たとして出場中止。その影響で同大会は開催中止。さらにAfflictionのMMA興行からの撤退が発表された。
2009年8月3日にStrikeforceと出場契約を交わしたことが発表された。

2009年8月28日、「M-1 Global Presents Breakthrough」でゲガール・ムサシと道着ありのエキシビションマッチを行い、腕ひしぎ十字固めでタップアウト。

2009年11月7日、Strikeforce初参戦となる「Strikeforce: Fedor vs. Rogers」で、ブレット・ロジャースと対戦。ヒョードルにとって金網での戦いは初めてであったが、右フックにより2ラウンドTKO勝ちを収め、WAMMA世界ヘビー級王座の2度目の防衛に成功した。

2010年6月26日の「Strikeforce: Fedor vs. Werdum」ファブリシオ・ヴェウドゥムと対戦し、1R 1:09下からのアームバーで一本負け。

ヒョードル3 ⇒ Ranking

NEWS皇帝、歴史的敗戦
2010年6月26日:「Strikeforce: Fedor vs. Werdum」
最強伝説を守り続けている“人類最強の男”“60億分の1の男”“ロシアン・ラストエンペラー”ヒョードル。
今回の挑戦者は『PRIDE』で活躍し、ミルコ・クロコップの柔術コーチとしても知られ、現在ではシュートボクセアカデミーでもトレーニングを積んでいるヴェウドゥム。

1R、じりじりとヴェウドゥムに歩み寄っていくヒョードル。ヴェウドゥムの右ストレートに右アッパーを合わせ、そこから左フック! 右アッパー! ヒョードルのパンチに押されるようにヴェウドゥムが尻餅をつく。
ヒョードルは一気にパンチと鉄槌を落とすが、ここでヴェウドゥムが三角絞め。
ヴェウドゥムは三角絞めと腕十字のコンビネーションで攻め込み、ヒョードルは必死に体を振ってそこから脱出しようとするが、ヴェウドゥムの三角絞めががっちりと入り、ヒョードルがタップ。
ヴェウドゥムがヒョードルからタップタップアウト勝利。歴史を変えた。

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2010/01/29(金)
朝青龍:第68代横綱
朝青龍0






モンゴル国出身。
本名 Долгорсүрэнгийн Дагвадорж;Dolgorsürengiin Dagvadorj;ドルゴルスレン・ダグワドルジ)。
左利きであり、塩を左手で撒く数少ない力士の一人である(左手で塩を撒いても作法上問題はない。また、ちゃんこを食す際、箸も左手で持っている)。

NEWS:傷害事件?


15歳でモンゴル相撲を始め、ナーダムの相撲少年の部で優勝。

1997年、日本の明徳義塾高校に相撲留学。
1999年、若松親方(現高砂親方)によるスカウトにより、高校を中途退学して角界に入門した。

2001年1月場所に新入幕。
2002年7月にモンゴル出身の力士として初めて大関に昇進。
2002年11月場所、2003年1月場所に連続優勝して横綱に昇進した。

ただしこの頃から、その品格が問題視されていた。

2003年結婚する。またこの年、長女が誕生する。

2003年5月場所、モンゴルの先輩旭鷲山との対戦で敗れた際土俵上で審判に対して物言いを要求、肩がぶつかった旭鷲山をにらみつけ、さがりを振り回した。
2003年7月場所の対戦では髷を掴み反則負けとなり、取組後の風呂場で口論となった後に旭鷲山の車のサイドミラーを破壊。この場所は頸部挫傷により途中休場した。

2004年1月場所・2004年3月場所で、2場所連続全勝優勝(30連勝)を果たした。

2004年5月場所は6日目(同年5月14日)に平幕の北勝力に敗れて連勝が35で止まり、最終的にこの場所は2敗となったが、千秋楽(5月23日)にモンゴルの後輩、白鵬が北勝力を破って「援護射撃」を果たすと、自身も結びの一番に勝ち、優勝決定戦で北勝力を破り3場所連続優勝を達成。白鵬と喜びを分かち合った。

2004年7月場所も13勝2敗で優勝。1996年の貴乃花以来となる、4場所連続優勝。
2004年11月場所から7場所連続優勝(従来は2度記録した大鵬の6場所連続)。
2005年には年間6場所完全優勝(従来は1966年の大鵬、1978年の北の湖、1986年の千代の富士、2004年の自身の5場所)、年間成績84勝6敗(従来は1978年の北の湖の82勝8敗)と、様々な記録を更新した。

2006年1月場所では、8連覇を目指したが、11勝4敗に終わる。
2006年3月場所は優勝したものの白鵬と決定戦に。
2006年5月場所では2日目の若の里戦に敗れた際右肘を痛め3日目から途中休場。
2006年7月場所に復帰すると11月場所の全勝を含め翌2007年1月場所まで4場所連続優勝し、史上5人目、外国人力士では初となる20回目の優勝を果たした。
2007年1月場所千秋楽翌日の1月22日、週刊現代に自身の八百長疑惑が掲載された。後に朝青龍をはじめとする現役力士と協会が起こした訴訟で、東京地方裁判所は被告である講談社側に、朝青龍へ1100万円を支払うことを命じた。
2007年3月場所は初日から2連敗。その後は連勝を続け、千秋楽で千代大海を立合いの変化で破って13連勝し優勝決定戦に持ち込んだものの、決定戦では逆に白鵬に立合いの変化で敗れた。

朝青龍4 ⇒ Ranking

2007年5月場所は9連勝の後10日目に安美錦に敗れると調子を崩し、12日目からは4連敗で10勝5敗に終わり、横綱昇進後初めて2場所連続で優勝を逃すとともに、白鵬の連覇と横綱昇進を許した。
2007年7月場所では初日に再び安美錦に敗れ、前場所から続けて5連敗を喫した。これらの不振に関しては前述の八百長疑惑報道の影響も指摘された。2日目からは14連勝し、3場所ぶりの優勝。新横綱白鵬に対し先輩横綱としての意地を見せるとともに復活を果たしたかに見えた。

しかし同場所後の7月25日、「左肘内側側副靭帯損傷、左尺骨神経障害、急性腰痛症、第5腰椎疲労骨折で約6週間の休養、加療を要する」とした診断書を協会に提出、夏巡業(8月3日から20日まで)の不参加を届け出たが、当人がモンゴルで中田英寿らとサッカーをしている映像が同日報じられ、仮病疑惑が噴出。
巡業部は帰国後の巡業参加を拒否。
8月1日には日本相撲協会から2場所出場停止、減俸30%4ヶ月、九州場所千秋楽までの謹慎の処分を受けた。
また同時に師匠の高砂親方も減俸30%4ヶ月の処分を受けた。
この処分に対し日本並びにモンゴルのマスメディアが大々的に報道、在モンゴル日本大使館ではこの処分に対して市民が抗議デモを起こした。また在日モンゴル大使館は7月31日、「サッカーはモンゴル国主催のチャリティー大会のイベントであり、日本外務省を通じ半ば強引に参加を要請したもので、大変なこととなり迷惑をお掛けした」と日本相撲協会に対し謝罪した。

朝青龍2 click ⇒ Ranking


8月27日には、日本経済新聞等で「東京国税局の税務調査を受け、テレビ番組やCMの出演料などの一部を申告していなかったなどとして、2005年までの3年間で約1億円の申告漏れを指摘されていた」ことが報道された。追徴税額は過少申告加算税を含め約3000万円であった。

2007年8月6日には、心療内科医・本田昌毅の往診により「神経衰弱および抑うつ状態」との診断を受けていたものの、後に協会医務委員会が紹介した精神科医により解離性障害と診断されたと発表。協会は謹慎処分を一部訂正しモンゴルへの帰国を承認した。これを受け8月29日に治療をするとしてモンゴルへ帰国した。

9月場所を出場停止処分により全休したため、11月場所では新横綱であった2003年3月場所以来となる西横綱となった。

11月場所千秋楽(11月25日)を終えたため、当初の決定通り謹慎を解除され、11月30日にはモンゴルから93日ぶりに再来日した。同日夕方に謝罪会見を開き、朝青龍本人が一連の騒動について謝罪し、会見後は臨時横綱審議委員会(横審)で謝罪と経緯説明をおこなった。

12月2日から大分県豊後大野市で始まる冬巡業に参加。7月場所千秋楽以来133日ぶりに土俵に復帰した。初日の横綱白鵬戦では寄り切りで勝利した。

12月21日朝、横綱審議委員会で脚本家の内舘牧子が事前通告なしに稽古を視察するため高砂部屋を訪れたが、朝青龍の稽古が休みで肩すかしを食う。さらに内舘が朝青龍に「癌を克服し現役に復帰したプロレスラーの小橋建太を見ならいなさい」と発言した。

2008年1月13日、1月場所で前年7月場所以来の土俵復帰。約5年ぶりの西横綱となったためか、初日の土俵入りの際、西横綱は本来は左足から土俵中央へ歩み寄るところを、長年東横綱として君臨していた癖で、右足を先に出すというミスも見られるなど、当初は2場所ぶりの復活で「相撲勘」を取り戻せるかどうかが話題となった。注目された初日は琴奨菊戦で快勝するも、2日目の稀勢の里戦では豪快な送り倒しを決められ、早くも土がついた。また3日目には観戦していた内館横審委員を土俵上で睨みつける(本人は否定)など、本来の横綱の風貌が戻ってきた。その後は不安定な取り組みがありながらも勝ち星を積み重ね、14日目まで1敗で東横綱の白鵬と並び、2002年9月場所の武蔵丸 - 貴乃花戦以来、約5年半ぶりの横綱同士による千秋楽相星決戦となったが、過去に類をみない白熱した大一番の末、白鵬に豪快な上手投げで破れた。

2008年3月場所では11日目までは全勝で、2敗で追う白鵬を引き離していたが、12日目で土がつき、翌13日目では対朝青龍戦28連敗中だった大関琴光喜が、連敗記録歴代2位という屈辱の記録に終止符を打った。そして14日目には両横綱共に2敗で並び、1995年3月 - 5月場所の貴乃花 - 曙戦以来、約13年ぶりの2場所連続の千秋楽横綱相星決戦となった。結果は朝青龍が小手投げで勝利し22回目の優勝を決めた。この優勝で優勝回数が貴乃花と並んだ。


2008年5月場所では、東横綱となったが、初日に稀勢の里に敗れた。その後は連勝したが11日目にこの場所初優勝した琴欧洲に敗れ、翌日以降さらに千代大海、魁皇にも敗れて3連敗となり、優勝候補から外れた。翌日は琴光喜に勝って連敗を止めた。
千秋楽では横綱白鵬に引き落としで勝ったが、この直後に負けて土俵上で四つんばいになっている白鵬を横から駄目押し、その行為に対し白鵬が立ち上がりながら朝青龍に右肩をぶつけ、両者がにらみ合う事件が起こった。この事件で北の湖理事長が朝青龍と白鵬を厳重注意した。

2008年7月場所では、場所前の稽古不足や右足首痛などで不安視されたがそれが的中してしまった。初日に豊ノ島に上手投げで敗れた後2日目から3連勝したが、5日目に栃乃洋に押し倒しで敗れた際に左肘を痛め6日目から途中休場。朝青龍の休場は2007年11月場所以来、途中休場は2006年5月場所以来のこととなった。

2008年9月場所では中日までに、雅山、安美錦、豊ノ島に敗北した。豊ノ島戦はテレビ映像では微妙で抗議もあったが、砂に足が付いた跡が残っていたとされる。
引退説まで囁かれたが、大鵬と九重理事(元千代の富士)ははいずれも「(まだやれる事を)考えるべきだ」と述べた。9日目までの5勝4敗という成績を受け、この日武蔵川理事長は休場を勧告し、10日目から休場することとなった。
2場所連続休場はサッカー問題で出場停止処分を受けた2007年9月場所と11月場所を除けば自身初となる。
武蔵川理事長は復帰後の場所で、進退がかかることを示唆し、朝青龍も進退をかけることを明言した。
11月場所は休場。

2009年1月場所は、場所前の横綱審議委員会稽古総見では調子が良くなく、進退問題も取り沙汰される状況で臨んだが、初日から14連勝と次第に調子を上げ、千秋楽では本割の一番は立ち合いを失敗して白鵬に敗れたものの、優勝決定戦では本割と一転して厳しい攻めで白鵬を寄り切りで下し、貴乃花光司を抜き歴代単独4位となる通算23回目の優勝を果たした。

初場所前はマスコミは進退問題をこぞって取り上げたが、優勝後も「相撲内容は安定感を欠いた」「稽古は不十分」「力の衰えを感じさせた」とバッシングを続けている。
2009年3月場所は、初日から9連勝と全く隙のない相撲を見せていたが、10日目に過去14勝2敗と圧倒していた日馬富士に敗れてからは自分の相撲が取れず、結局11勝4敗に終わった。場所後、日馬富士戦で肋骨骨折していたことが判明した。

2009年5月場所直前、朝青龍は申請していた日本国の永住権を取得したことを明らかにしたが、今のところ親方として相撲協会に残る際に必要となる帰化は行っていない。

2009年7月6日、オフィシャルブログにて夫人と離婚していたことを発表した。

2009年9月場所は、初日から14連勝。全勝優勝がかかった千秋楽で横綱白鵬に寄り切りで敗れたが、優勝決定戦ではその白鵬をすくい投げで破り、北の湖に並ぶ通算24度目の優勝を果たした。なお、この日は自身の29歳の誕生日でもあった。

2009年10月、M資金詐欺で1億2000万円を騙し取られていたことが週刊誌で報じられた。

2009年11月場所は、初日から11連勝したがその後4連敗し、11勝4敗で終わった。

2010年度初場所は千秋楽前の14日目に優勝を決め2場所ぶり25度目の優勝を果たしたが、千秋楽では白鵬に寄り倒され13勝2敗の成績となった。白鵬戦は7連敗となり、横綱同士との対戦成績としては男女ノ川が双葉山に喫したワースト記録に並んだ。


NEWS:傷害事件?
大相撲の横綱朝青龍(29)が初場所中に泥酔して知人男性に暴行したとされる問題で、日本相撲協会の理事会は28日、師匠の高砂親方(元大関朝潮)に異例の再調査を命じた。
被害者とされた人物について“虚偽報告”をした疑惑も浮上。師弟の“偽装”が判明すれば、さきに出された厳重注意よりも厳しい処分を科す可能性が出てきた。
また、横綱はこの日、出席予定だったプロ野球・楽天前監督の野村克也氏(サンケイスポーツ専属野球評論家)の記念パーティーをドタキャン。得俵?!


理事会の席上で、元警視総監の吉野準監事(外部委員)が、高砂親方への取り調べに乗り出した。

「親方は(朝青龍が暴行した相手と)示談したというが、本当に示談書は見たのか?」。元警視総監ならではの鋭い指摘が飛ぶ。

列席した高砂親方はしどろもどろで、「見ていない。それに向けて一生懸命やっている」。
冷や汗を流しながら前言を撤回するしかなかった。
初場所千秋楽の翌日(25日)、武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)に呼び出された際、「(被害者とは)示談をしている」という同理事長への報告が“偽装”だったことが判明した瞬間だ。

師匠としてあまりに無責任な対応に、武蔵川理事長も激怒。「こんなことでは困る」と約10分間にわたって、高砂親方を叱責。異例の再調査を厳命し、協会としてあらためて朝青龍に事実関係の説明を求める方針を決めた。
困り果てた高砂親方は、相撲教習所で行われた教習所生の卒業式も欠席し、姿を消した。
また、横綱審議委員会において「次にトラブルを起こしたら引退勧告をするべき」-とする“最後通告”が出された。

師弟の疑惑は、被害者との示談だけではない。
当初は、横綱の個人マネジャー一宮章広氏(31)が「(被害者は)自分です」と名乗り出ていたことから、朝青龍は師匠の高砂親方へ暴行相手を「マネジャー」と報告。
そのまま武蔵川理事長にも伝えていた。
被害者が個人マネジャーであるならば、仲間内での出来事と判断して、同理事長は「厳重注意」という寛大な処分を科した。

だが、警視庁麻布署が一宮氏ではないと否定したことから、被害者が別の知人男性であることが判明。2つの“偽装疑惑”が浮上している。

その男性が麻布署に被害相談に訪れていたこともこの日、判明。
麻布署は今後、男性から傷害や暴行容疑などで正式な被害届が提出された場合、朝青龍からも事情を聴く方針だ。
男性は「(朝青龍が)謝罪してくれるなら被害届は出さない」とし、車内にいた横綱が酔っていたこともあり、同署は詳しい事情は聴かずに帰した。
男性は25日に「まだ謝罪がない」として診断書を持って同署に相談に訪れたが、被害届は出していないという。

都内で行われたプロ野球・楽天前監督の野村克也氏(サンケイスポーツ専属野球評論家)の「監督通算1500勝達成 楽天名誉監督就任記念パーティー」の発起人の1人として鏡割に参加する予定だったが、姿を見せず。プロ野球巨人・原辰徳監督やソフトバンク・王貞治会長ら豪華メンバーがそろっただけに、不在ぶりが際立ってしまった。

理事会が命じた再調査の結果は、来週中にも招集される理事会で説明される見込み。
暴行事件のみならず、虚偽報告もあれば、協会への重大な背信行為。
吉野監事は「それ(厳重注意)以上の処分が必要」と断言する。
3年前のサッカー騒動で受けた出場停止に匹敵、それ以上の厳罰が科される可能性も出てきた。

もし、被害届がでたとなると、横審からは、「引退勧告」。警察から、暴行傷害の疑いでの事情聴取。
最悪は、現役横綱逮捕の路もある。

朝青龍は、3役時代から品格を疑われていた人物。今大相撲には、白鵬がいる。
朝青龍は、もういらない。双羽黒と同じだ。

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 横綱朝青龍

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2009/09/03(木)
山本徳郁:総合格闘家
山本“KID”徳郁0

通称:「神の子」 山本“KID”徳郁(やまもと"キッド"のりふみ)

祖父:水泳のオリンピック選手
父:山本郁榮 ミュンヘンオリンピックレスリング・グレコローマン日本代表
姉:美憂 世界レスリング選手権大会を制覇
妹:聖子 世界レスリング選手権大会を制覇

2004年にモデルのMALIA(新保真里有)と結婚し、3人の子供をもうける。
2009年8月に離婚。子供はMALIAが引き取った。→NEWS

山本“KID”徳郁1 ⇒ Ranking

戦歴
幼い頃よりレスリング(フリースタイル)で活躍。
全日本学生選手権優勝(フリースタイル58kg級)
全日本選手権2位(フリースタイル58kg級)

総合格闘家に転向。義兄のエンセン井上に師事。
2000年に第7回全日本アマチュア修斗選手権大会ライト級で優勝。
2001年にプロデビューし修斗で活躍、ライト級世界ランク2位。

2002年9月16日、プロフェッショナル修斗公式戦においてレフェリーストップがかかったにもかかわらずレフェリーの制止を無視し相手の勝田哲夫選手を殴り続ける暴挙を働いたため120日間のライセンス停止処分を受ける。
このレフェリーストップ後も攻撃をやめない悪癖はK-1転向初期にもしばしば見られた。

2003年12月14日、修斗で修斗世界ライト級チャンピオンシップで対戦予定であったが、練習中に右手人差指を骨折し、全治2か月となり欠場した。

2004年2月24日、K-1初参戦となる「K-1 WORLD MAX 2004 〜日本代表決定トーナメント〜」
1回戦で村浜武洋と対戦。1Rに1度、2Rに2度ダウンを奪い、2R2分38秒KO勝利。
だが、試合前から負傷していた右手第二中指骨を骨折し、準決勝を棄権した。

トニー・バレント、安廣一哉、ジャダンバ・ナラントンガラグを総合ルール(安廣のみミックスルール)にて一本・KO勝ち。

2004年12月31日のK-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!で対戦。
1Rに魔裟斗からダウンを奪った直後、金的を貰いダウン。リプレイが流れた会場では悲鳴が上がるほどのダメージを受け、実況席からも続行は無理と言われる程であった。また、完全に視線が下にいっている魔裟斗のリプレイ映像を見て解説の船木誠勝が故意であることを匂わせる発言をした。インターバルの後に試合は再開されたものの、精彩を欠いたKIDは2Rにダウンを取り返され、判定負け。
 【送料無料選択可!】K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!! / 格闘技
自分の目で、確かめろ。


2005年3月3日のHERO'S参戦が発表されるも、怪我のため、3月26日のHERO'S旗揚げ戦は欠場となった。

2005年5月4日、K-1 WORLD MAX 2005にスーパーファイトで出場。しかしマイク・ザンビディスに生涯初のKO負けを喫した。

2005年7月6日、HERO'S 2005にスーパーファイトで出場。イアン・シャファーと対戦し、TKO勝利。

2005年9月7日、HERO'S 2005 〜ミドル級世界最強王者決定トーナメント〜準々決勝でホイラー・グレイシーを右フック一発でKO、準決勝で宇野薫をパンチで出血させ、TKO(レフェリーストップ)勝ち。

2005年12月31日、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!にてトーナメント決勝を須藤元気と対戦し、1RKO勝ち。HERO'Sミドル級王者となり、初のベルト戴冠となった。

2006年2月17日、修斗代々木大会に出場した同門の菊地昭の試合後にドクターチェック中であった中山健児リングドクターに対し暴言を吐いた上、足先で臀部を小突いた。
2月21日、事態を重く見た日本修斗協会は、山本に修斗全公式戦会場立入禁止、山本が代表を務めるKILLER BEE所属全選手および関係者へ修斗全公式戦出場停止処分を下した。
2月22日にKIDが中山リングドクターに謝罪し和解。
3月6日付けでインターナショナル修斗コミッション(ISC)よりKIDへの無期限ライセンス不許可処分およびKILLER BEEへの厳重注意処分を受けた。
10月12日にKIDがISCおよび日本修斗協会に謝罪し、10月13日付けで無期限ライセンス不許可処分が解除された。

2006年5月3日、HERO'Sで宮田和幸と対戦し、開始4秒の跳び左膝蹴り一発でKO勝ち。この膝蹴りで宮田は下顎骨を骨折する重傷を負った。

2007年9月17日、HERO'Sでビビアーノ・フェルナンデスと総合格闘技復帰戦を戦い、判定勝ち。

2007年12月31日、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!でハニ・ヤヒーラと対戦。左フックでKO勝ち。ヤヒーラがダウンした後の頭部へのサッカーボールキックに対してイエローカードが提示された。

2008年7月21日、DREAM.5でジョセフ・ベナビデスと対戦予定であったが、練習中に右膝前十字靭帯を断裂し、欠場となった。

2009年5月26日、約1年5か月ぶりの復帰戦となるDREAM.9のフェザー級グランプリ2回戦でジョー・ウォーレンと対戦し、判定負け。

2009年7月13日、約4年2か月ぶりのK-1参戦となるK-1 WORLD MAX 2009でチョン・ジェヒと対戦し、1Rに右アッパー、左フックの連打を受け失神TKO負け。

#怪我が多いね。

山本“KID”徳郁2 ⇒ Ranking



NEWS
格闘家の山本“KID”徳郁(32)とモデルのMALIA(新保真里有さん=26)が3日までに、それぞれのブログで離婚を発表した。3人の子供は真里有が引き取るという。

真里有さんは3日付のブログで、
「私、新保真里有は山本“KID”徳郁さんと離婚しました」
「日々の結婚生活の中で、将来の方向性や考え方に少しずつ違いを感じるようになり、何度も何度もたくさんの時間をかけて話し合い、お互いの未来のために別々の道を歩んで行く事を選択しました」
と明かした。

山本も2日深夜に更新したブログで
「理由は俺が100%悪いんだけど。俺のだらしなさ、そしてマリアが大変なときに友達とばっか遊んでて助けてやれなかった」
「マリアはすごく真面目でいいママなんだけど、俺はただ子供と楽しむだけで教育の出来ないバカなパパだったよ」
と反省していた。

もっとも2人のブログを読むと、未練はありあり。
真里有さんのブログには
「彼と過ごした6年間はキラキラとした毎日で素敵な思い出がたくさんあります」。

山本のブログには
「これからもマリアしか愛せない。またマリアと結婚してみせる!」

子供との接し方、子育てで、齟齬があったんだと思う。
子供が大きくなったら、再婚ではないが、パートナーとなるかもしれない。

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2009/07/13(月)
秋山成勲:「柔道スーパースター」???
秋山成勲0

在日韓国人四世として生まれ、後に日本国籍を取得した。
柔道の韓国代表を目指すが、、韓国帰ると僑胞(在日)への差別は激しく、日本に帰化した。

日本に帰化し、釜山アジア大会に出場・優勝した際、韓国のマスコミに対し「柔道のために日本国籍を取りはしたが、私は永遠に韓国人だ。私を声援してくれた同胞たちに感謝する」とインタビューに答え、かえって韓国のマスコミの批判・バッシングを受ける結果となった。

2004年7月からフリーのプロ格闘家として活動。
成績は、そこそこ。
2006年12月31日、K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!のメインイベントで桜庭和志と対戦。レフェリーストップで1R TKO勝利。試合後はセコンドについた清原和博と抱き合い勝利を喜んだ。後日、秋山の悪質な反則行為(本稿#不正および疑惑参照)が発覚し、2007年1月11日付けで試合結果はノーコンテスト扱いとなり[2]、FEG主催大会への無期限出場停止の処分を受けた。


「ぬるぬる」
2003年2月4日放送のフジテレビ『ジャンクSPORTS』に柔道家として出演した秋山は、番組中に「胴着を滑りやすくして有利に試合をすすめる」、「母親が柔軟剤のハミングを使って洗っている」といったコメントを残している。
同年、世界柔道選手権大会の日本代表決定戦となる全日本選抜柔道体重別選手権大会に優勝。しかし、この決勝戦において対戦相手の中村兼三に「柔道着が滑る」と抗議された。
同年10月の世界柔道選手権で2回戦から4回戦の対戦相手であるフランス、モンゴル、トルコの3カ国から「柔道着が滑る」という抗議を受けた。(なお、1回戦は不戦勝)
「疑われるようなことが問題」という山下泰裕理事の指示で柔道着が交換させられた。本人は「洗ったばかりで石鹸が少し残っていた」と弁明。柔道着を交換した後は準決勝、敗者復活戦で2連敗して5位。

2006年12月31日、K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!で桜庭和志と対戦。タックルから足を取ろうとした桜庭が異常を感じて行った、桜庭の試合中断要求(秋山の足が「滑る」と格闘技戦では異例の「タイム」を要求し、猛アピール)をレフェリーを務めた梅木良則、および秋山は、受け入れずに試合を続行させた。桜庭はその後も数度、足を取ろうと試みるが失敗(その際も桜庭は試合を行いながら「滑る」と抗議のアピール)。秋山はそのままパンチのラッシュからオープンガードの上を取り、桜庭に百発を超えるパウンドのラッシュを続けた。その最中も殴られながら、桜庭は「滑るよ!」「反則だろ!(反則だ!)」と繰り返し抗議したが試合は続行された[11]。その後、レフェリーストップ(平直行審判長と前田SVの判断)のゴングが鳴り、秋山が勝利。試合後も「全身が滑る」と訴えていた桜庭の抗議を受けた。



2007年1月11日、都内ホテルにおいて、主催者による秋山VS桜庭戦に関する記者会見が行われ、秋山が試合前、全身にアメリカ製のスキンクリームを塗っていた事実が明らかにされた。しかも、成分にワセリンやグリセリンも含まれているものだった。クリームは、秋山が乾燥肌で、それを防ぐために普段から使用しているものとした。この点でも、前述の多汗症という弁明とは相反しており、疑問である。秋山は、直接ワセリンやタイオイルを謳った類いのものではないので、塗っても大丈夫という認識だったとしている。またFEG側は、テレビカメラの前で堂々と塗っている事から、秋山サイドに悪意はなく、過失と判断した。しかし、HERO'Sルールは、試合前に体に何かを塗る事自体を禁止しているため、試合はノーコンテスト(無効試合)、秋山のファイトマネーは全額没収となった。その後1月17日、FEGが主催する大会への無期限出場停止(事実上の永久追放)の追加処分が下された。


2007年10月28日、HERO'S KOREA 2007でデニス・カーンと対戦し、右アッパーでKO勝ち。試合後、マイクを持った秋山は韓国語で「いろいろありましたけど、国民一人一人の力によって戻ってこれることができました。我が国、大韓民国、最高!」とアピールし、観客の拍手を浴びた。
#お前は、日本人だろうが!!

2008年12月31日に開催される「Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜」にはオファーを受けていたものの、「今年の大晦日は辞めておきます」として欠場を表明した。
ファイトマネーを秋山はK-1最高水準を希望したことにより、FEGサイドとの関係も悪化。11月をもって契約が切れた。
2009年2月24日、UFC公式サイトにて秋山と契約したことが発表された。3月3日には日本で記者会見を開かれUFCと6試合契約をしたことが本人より発表された。翌4日には韓国でも記者会見が開かれた。

2009年7月11日:UFC100 ミドル級5分3回 

UFCは、金網で囲まれた八角系のリングで何でもありルールで行う。
完全燃焼の15分間だった。リングアナから「柔道スーパースター」と紹介されたが、あえて打撃戦を挑んだ。左ジャブで距離を測り、キックとパンチを対角線上につなぐ多彩なコンビネーションを披露。2ラウンド(R)には、インサイドガードポジション(上に乗った状態)からのど元にひじと拳を落とす“エグイ”攻撃も見せた。一方、1Rにはベルチャーの左ストレートに吹っ飛ばされて尻もちをつくなど、防御面の甘さも目立った。

 勝利がコールされた瞬間、あおむけに倒れ、目頭を覆った。そのままキャンバスに正座して四方に深く頭を下げたが、左目の眼窩底骨折の疑いもあり、すぐに救急車で市内の救急病院へ搬送された。重いローキックを受けた左足もダメージが大きく、当初は「左足の神経が切れた」「今夜手術を受け当面入院する」など不確定情報が錯そう。長期戦線離脱の可能性も懸念されたが、CT検査などの結果、異常なしと判明した。

 薄氷の判定勝利に容赦ないブーイングが浴びせられ、UFCのダナ・ホワイト代表も「秋山戦の判定に100%同意するわけではない」と暗に異を唱えた。心身ともに傷だらけのデビューとなったが、「反骨の柔道王」は、四面楚歌(しめんそか)の逆境から、一歩ずつはい上がるしかない。
さもなければ、「ぬるぬる魔王」の蔑称が待ち受けているだけだ。僑胞、日本。居場所はない。
#ハッスル?


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2009/06/15(月)
三沢光晴:プロレスラー ↑
三沢光晴0

プロレスリング・ノア(以下ノア)代表取締役社長。
併せて2006年9月にグローバル・レスリング連盟初代会長に就任。

生前は関東地区で放映されていた不動産会社「リーヴライフ21(ザ・リーヴ)」のコマーシャルに出演していた。

人気・実力などにおいて新日本プロレスの蝶野正洋、全日本プロレスの武藤敬司と共に、日本の男子プロレス界の頂点に君臨する。
いくら打たれても投げられても立ち上がってくるところから「ゾンビ三沢」「受け身の天才」「アンタッチャブル」。
若い頃には端整な顔立ちから「エルボーの貴公子」とも呼ばれた。
全日本プロレス時代はしばしば満身創痍の状態でリングに上がりつづけていたことから、「ガラスのエース」とも呼ばれていた。

三沢が創設したノアでは、日本のプロレス・格闘技団体ではリングマットが青であることが多い中、「目に優しい色」という理由で、自身のイメージカラーと同じエメラルドグリーンである。

来歴・戦歴は、Wikipedia:三沢光晴を読んでください。

各界からの弔辞は、
 ・三沢光晴の死に、レスラーが団体の垣根を越え、ブログに弔辞を
 ・三沢選手の死に、元実況アナたちにも波紋

検視結果:三沢光晴:死因は頸椎の損傷
#首の骨が折れて、脊髄がほぼ全て切断。即死に近い状態。

三沢光晴4 ⇒ Ranking
初代・2代目タイガーマスク決戦。(マスクをしているほうが、初代。)

三沢光晴3 ⇒ Ranking
三沢の必殺技:エルボー

主な獲得タイトル

プロレスリング・ノア
 ・GHCヘビー級王座(3回/初代・第5代・第11代)
 ・GHCタッグ王座(2回/第2代・第8代)
    パートナーはいずれも小川良成。

全日本プロレス
 ・ 三冠ヘビー級王座(5回/第10代・第14代・第17代・第20代・第23代)
 ・ 世界タッグ王座(6回/第17代・第20代・第24代・第25代・第29代・第39代)
    パートナーは川田利明2回→小橋建太2回→秋山準→小川良成。
   第39代王座戴冠時にアジア・タッグ王座も同時戴冠。
 ・ アジアタッグ王座(2回/第51代・第67代)
    パートナーは小橋健太→小川良成。
 ・ PWF認定世界タッグ王座(1回/第3代)
    パートナーはジャンボ鶴田。
 ・ NWAインターナショナル・ジュニアヘビー王座(1回/第17代)
    ヘビー級転向のために王座を返上。
 ・ チャンピオン・カーニバル(優勝2回/1995年・1998年)
 ・ 世界最強タッグ決定リーグ戦(優勝4回/1992年・1993年・1994年・1995年)
    パートナーは1992年が川田利明、それ以降は小橋建太。

プロレス大賞
1982年、新人賞
1985年、敢闘賞
1990年、殊勲賞
1991年、最優秀タッグチーム賞(パートナーは川田利明)
1992年、特別大賞
1993年、最優秀タッグチーム賞(パートナーは小橋健太)
1994年、最優秀タッグチーム賞(パートナーは小橋健太)
1995年、年間最高試合賞(川田利明&田上明 vs 三沢光晴&小橋健太)
1997年、殊勲賞、年間最高試合賞(三沢光晴 vs 小橋健太)ダブル受賞
1998年、年間最高試合賞(三沢光晴 vs 小橋健太)
2003年、年間最高試合賞(三沢光晴 vs 小橋建太)
2007年、最優秀選手、年間最高試合賞(三沢光晴&秋山準 vs 小橋健太&高山善廣)

中学卒業後の進路を担任教師(女性)にプロレスラーと言うと「ふざけるな」と激怒されたと言う。しかし三沢が真面目に考えてる事が解るとレスリングの名門である足利工業大学附属高等学校を勧められた。

単身で全日本プロレスに入門希望に訪れると偶々居合わせたジャンボ鶴田に「せめて高校を卒業してからにしなさい」と追い返された。
レスリング部在籍時も「何でプロレスラーになりたいのにこんなこと(レスリング)しなけれな行けないんだ」と競技としてのレスリングはつまらなかったと言う。本人談では「(レスリングを)続けてればオリンピック選手ぐらいにはなった自信があるがつまらないから早く止めたかった」と語っている。

中学時代は体操部でそれがタイガーマスクのベースになっていることは断言している。

体力的にはプロレス転向前から完成されており「プロってなんて(トレーニングが)楽なんだ。高校時代の方がもっときつかった」と語っている。元々体格にも恵まれていたが高校レスリング部時代は減量が厳しくプロレスデビュー当時はジュニアヘビー級だった。逆に好きに食べられるプロレスは幸せだと語っている。

三沢光晴6 ⇒ Ranking


三沢、壮絶マット死!!

 6月13日午後8時40分ごろ、広島市中区基町の広島県立総合体育館グリーンアリーナで開催された「プロレスリング・ノア広島大会」で、三沢光晴選手(46)が試合中に相手の技を受け頭部を強打。
救急車で市内の病院に運ばれたが、
同10時10分に死亡が確認された。
ジャイアント馬場、アントニオ猪木が引退した後の日本マット界をけん引したエースが、衝撃の“殉職”となった。

マット上で大の字となった三沢がピクリとも動かない。2300人、満員の観衆による「ミサワコール」にも立ち上がることはできなかった。

 「社長!!」「社長!!」

 選手、関係者が呼び掛けたが、三沢に反応はない。専属トレーナーが心臓マッサージを繰り返す。さらに、「観客の方でお医者さんはいませんか!?」というリングアナウンサーの要請でマットに上がった医師が、自動体外式除細動器(AED)で蘇生を試みた。

 すぐに救急車が手配され、広島大学病院(広島市内)に搬送。県警広島中央署は「病院から三沢選手が心肺停止状態と連絡があり、署員が向かった」と説明したが、午後10時10分、死亡が確認された。死因は不明。6月18日、47歳の誕生日を目前にしての悲劇だった。

 三沢は13日夜、メーン・イベントのGHCタッグ選手権(60分1本勝負)に潮崎豪とのタッグで出場。第17代王者の斎藤彰俊、バイソン・スミス組に挑戦した。リングサイドで観戦していた人によると
「この日の三沢は精彩を欠いているように見えた」という。

 そんな中で、アクシデントは起きた。ゴングから25分過ぎ、斎藤の打撃技を顔面などに受けていた三沢は、さらにバックドロップを同じ斎藤から食らう。
本来、後頭部をマットに打ち付ける技だが、この一撃はかなりの急角度で落下。ほぼ脳天から落ちた。
三沢光晴5 ⇒ Ranking
普通のバックドロップはこうなる。

 ダウンした三沢に、レフェリーが「動けるか」と聞くと、三沢は「動けない」と答えたが、すぐに意識を失った。

 試合としては27分03秒、レフェリー・ストップ。斎藤、バイソン組が3度目の王座防衛。
しかし、ただならぬ状況に会場の熱気は次第に冷気となり、ショックで泣き出す女性ファンの姿もあった。

 三沢は全日本プロレス時代、2代目タイガーマスクとしてデビュー。捨て身のファイトで多くのファンを魅了した。本名の「三沢光晴」となって、幾度となく名勝負を演じた川田利明(モンスターK)との「3冠ヘビー級選手権」では、テレビ解説を務めていたジャイアント馬場(故人)が、熱過ぎるファイトに泣いてしまった逸話もある。

 「受け身の天才」と称される一方で、試合中のけがも多く、首や腰にいつも爆弾を抱えていた。13日午後11時過ぎ、「三沢死亡」の衝撃的ニュースに、病院前は報道陣でごった返した。また、県警広島中央署が団体幹部や対戦選手から詳しい事情を聴いている。




 三沢光晴選手のご冥福を祈ります。→


 バップ 三沢光晴/PRO-WRESTLING NOAH 三沢光晴



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