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三遊亭圓楽 :星の王子様、星にお帰りになる。 ↑

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2009/10/30(金)
三遊亭圓楽 (5代目):元落語家
三遊亭圓楽0

生家、易行院はかつて浅草の清川町にあったが後に足立区伊興(東伊興、最寄駅は東武伊勢崎線の竹の塚駅)に移転。

演芸番組『笑点』(日本テレビ)の大喜利メンバー・司会者を務めていた事で知られる。
身長177cmと長身。

円楽一門会総帥。
通称「馬圓楽」(見りゃぁ分かる。)→大喜利のねた
資材を投じて、寄席「若竹」開館させるも、経営難のため閉館。 →大喜利のねた

若い頃は「星の王子さま」(→大喜利のねた)の愛称で親しまれ、端整な顔立ちと博識振りで1960年代の演芸ブームの際脚光を浴びた。
7代目立川談志、3代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝(柳朝没後は8代目橘家圓蔵)と共に「四天王」と呼ばれた。
出囃子は『元禄花見踊り』。

幼い頃は病弱で腎炎、結核との闘病を経験する。腎臓の病はその後も水面下で進行し66歳の時に腎不全を発症。以後は週3回の人工透析を受けるようになる。

生まれ育った寺には修行僧や使用人など年上の男性と一緒に住んでいた為、自分の父親がどの人か分かったのは5歳ぐらいだった。食事時の無作法をたしなめられて初めてわかったという。

東京大空襲にあったが家族は一命をとりとめ、終戦後は「これからは食糧難だから農業だ」ということで父親の薦めで農業学校に入る。

上野鈴本演芸場で落語を見た時に「戦時中は暗い顔をした人々にこうやって笑いを起こさせる事が出来る落語は凄い」と落語家になる事を決意する。

6代目三遊亭圓生に入門する際に「一人前になるまで50年は食えませんよ」と言われたが、
圓楽は「30歳までに真打になれなかったら辞めます」と言って入門した。
実際に圓楽は30歳を迎える約3ヶ月前に真打昇進した。

「噺は上手いが圓生の真似だ」と言われ圓楽自身も悩み、ストレスで一時は体重が48kgになったり自殺未遂をしかけるほどだった。
母親から「お前は名人だよ」と言葉をかけられ、自分にはこんなに気遣ってくれる人がいるとなんとかスランプを脱出。
*のちにそれをネタにしてキャッチフレーズを「名人圓楽」とするが、師匠などから「二つ目の分際で名  人とは生意気でげす」と怒られ、
 キャッチフレーズを「星の王子さま」に変更。

本人は落語家としてやっていくつもりはなく、事実上テレビ専業のタレントであった。
「落語界・寄席でタブーとされることを全部やってやる」
「寄席の価値観の逆をやる」という戦略をとり、瞬く間にスターとなった。
 「キザ」という価値観は寄席では排除されるものだが、圓楽はあえてキザであり続けた。
 前田憲男とプレイボーイズのLP『円楽のプレイボーイ講座 12章』がそのあらわれである。
 このLPは横山剣(クレイジーケンバンド)により絶賛[2]され、
 2001年にCD化(2008年、紙ジャケットCDとして再発)。
 ジャズの調べに乗せてエスプリたっぷりに女性の口説き方を、独特のキザな語り口で聴かせている。

圓楽主演のテレビドラマ『笑ってヨイショ!』(東映製作・日本テレビ系)までが制作され圓楽、野末陳平としてドラマタイトルと同じ曲名の主題歌「笑ってよいしょ」を発表する。
日活の映画『ハレンチ学園』シリーズにも主要なコメディリリーフで出演していた。

パンアメリカン航空のテレビCMに出演していた。
プロレス団体のFMWのコミッショナーも務めていたことがある。

師匠の厳命により1977年に「タレント廃業宣言」をするまで落語に全力を注ぐことはなかった。
タレント廃業宣言は徹底したもので、『笑点』含む全レギュラー出演から降板した。
1983年に司会者として『笑点』に復帰した後もテレビのレギュラー番組は原則『笑点』以外に持たなかった。

麻雀の腕前はプロ級である。行きつけの雀荘は旧日テレ本社ビル近くにある「サラブレッド」。
これが故で、馬面も相成って、馬扱いされる事があった。
実は、玄人筋が戦々恐々するほどの「雀鬼」。負かした者は誰もなく必ずすっからかんになるとの事。
本人曰く「ケツの毛まで抜かれる運命よ、ガハハハハ…」。

1978年の落語協会分裂騒動で師匠圓生と行動を共にしたのは「師匠をおいて残れない」という理由から。
圓楽は6代目圓生に「あたしが引退した後、お前が三遊派の総領として弟子を守っていくんでげすよ」と念を押されていた。
圓生が引退している身であれば脱会はしなかったが(真打昇進に関しては圓生と正反対の考え方を持っていた)当時圓生は78歳と高齢ながら現役を退いておらず師匠に逆らい自分が弟弟子と行動を共にすることなぞ出来ないと悟り、師匠と共に落語三遊協会を立ち上げたというわけである。
もしあの当時圓生が引退していたならば、分裂はもちろん死後に第3の行動に出る事もなかったとされる。
因みに分裂の過程では弟弟子三遊亭さん生・三遊亭好生が残留し脱落(結果破門された)。
行動を共にした6代目三遊亭圓窓・三遊亭圓彌・三遊亭圓丈等の他の弟弟子は6代目圓生の死後落語協会に復帰している。

立川談志は「嫌い」と公言しているが、笑点開始以前から続く「悪友」関係。
圓楽が本当に嫌っていたのは談志の師匠・5代目柳家小さん。(分裂騒動時の落語協会会長)

東京都江東区東陽町に自費で寄席「若竹」を設置。「噺家の純粋培養」を企て寄席に出られない圓楽一門の新たな活動場として用意したつもりであった。
弟子達はその意に反して余興等に精を出して肝心の「若竹」の出番を休んでいたりしたため、これを憤った圓楽は遂に「若竹」の閉鎖を決意。
以降、圓楽一門は圓楽傘下の芸能社である星企画の取ってくる余興等にのみ活動の場を求めなければならなくなった。
なお、不動産会社・永谷商事が東京都墨田区両国に設置した貸ホール「お江戸両国亭」では圓楽一門による定席が執り行われている。

二つ目の全生時代、火事場に余興に行って「『全焼』じゃシャレにならない」として断られたことがある。大相撲の春日山部屋を訪問した時は「全勝」で縁起がいいと歓迎された。

2008年には弟子の楽太郎に「弟子も誰も来ないのか…5代目圓楽の墓」とネタにされたことがある。(元は歌丸死去ネタを遮られたため、師匠に置き換えたというだけである)
既に十数年前に自身の墓を生前建立している。いわゆる「寿陵」と呼ばれ生前に自身の墓を建立することは縁起のいいこととされるが自他共に認めるせっかちな性格もあり、他人の作った墓に入るよりは自身で早く作ってしまおうと考えたため自分の墓を建立したとのこと。

経歴
1955年(昭和30年)2月 - 6代目三遊亭圓生に入門、「三遊亭全生」(ぜんしょう)と名乗る。
1958年(昭和33年)3月 - 二つ目昇進。
1962年(昭和37年)10月 - 真打昇進し「5代目 三遊亭圓楽」襲名。
1966年(昭和41年)5月15日 - 『笑点』放送開始。第1回から出演。
1968年(昭和43年)- 日本テレビ系で主役のドラマ「笑ってよいしょ」放送開始。
1969年(昭和44年)3月30日 - 『笑点』降板。
1970年(昭和45年)6月21日 - 『笑点』復帰(復帰の際、弟弟子6代目圓窓を連れて来ていた)。
1977年(昭和52年)3月27日 - 『笑点』卒業(8月21日には弟弟子6代目圓窓も卒業している)。
1978年(昭和53年)6月1日 - 落語協会真打乱造事件で師匠圓生一門と共に落語協会脱退し、「落語三遊協会」創設。
1979年(昭和54年)9月3日 - 師匠圓生死去。
1980年(昭和55年)2月1日 - 圓楽一門以外の弟弟子達は全員落語協会復帰。「大日本落語すみれ会」に名称変更。
1983年(昭和58年)1月9日 - 4代目司会者として『笑点』復帰。 
1985年(昭和60年)
「大日本落語すみれ会」を「落語円楽党」、「落語ベアーズ」と次々と改称し「円楽一門会」に落ち着く。
三遊亭圓楽1 ⇒ Ranking

3月 - 私財を投げ打って東京都江東区東陽に寄席「若竹」開館。
1989年(平成元年)11月25日- 経営難のため若竹閉館
2005年(平成17年)
5月31日 - 六人の会が主催した「余一会」で27年ぶりに新宿末廣亭出演。
10月23日 - 人工透析のため通院していた病院で脳梗塞の症状が現れたため入院。
2006年(平成18年)5月14日 - 『笑点』勇退。高座復帰として9月に好楽の会で小咄、10月に鶴瓶の会で落語(『紺屋高尾』)をそれぞれ披露。
2007年(平成19年)
2月4日 - 「第23回浅草芸能大賞」大賞。授賞式で『芝浜』を口演、本格復帰表明。
2月25日 - 国立演芸場での「国立名人会」で復帰と同じ『芝浜』を口演後、現役引退表明。
4月1日 - 日本テレビ系列放送の『いつみても波瀾万丈』をもってテレビ出演引退。
7月15日 - 東京・銀座の中央会館で行われた「大銀座落語祭」のトークショーを、風邪による体調不良の為欠席した。
圓楽の5ヶ月ぶり登場を待ち望んでいたファンも多かっただけに同祭を主催する「六人の会」の春風亭小朝、笑福亭鶴瓶、春風亭昇太、9代目林家正蔵、「笑点」で共演していた林家木久蔵(現:林家木久扇、電話で急遽呼びつけられたと高座での本人談)ら豪華メンバーが代演に駆け付けた。
鶴瓶は「対談と思って着物を持ってこなかった」と浴衣姿で大先輩の穴を埋めた。結果、観客からの不満は漏れなかったという。
11月3日 - 旭日小綬章叙勲受章。
11月19日 - 胃癌発病による手術のため、慶應義塾大学病院入院。
12月16日 - 叙勲を祝う会に出演。
2008年(平成20年)
3月9日 - 円楽一門会新真打披露口上のため、『笑点』に出演。
4月 - 肺癌発病による手術を行う。
2009年(平成21年)10月29日 - 肺癌により東京都中野区の自宅で逝去。

笑点
歌丸やこん平ともに第1回放送からのメンバーである。
1977年3月27日に落語に専念するため番組を卒業。
1982年12月8日に司会であった三波伸介の急死に伴い1983年1月9日から司会者として番組に復帰した。
しかし当人は、2回限りの臨時司会のつもりで引き受けたという(このためか司会就任後しばらくは様々な紋付を着ており、徐々に紺の色紋付に定着する)。

就任して暫くは答えの合間にその博識を生かした都々逸をよく披露していたりしていたが、徐々に出題、指名、座布団の差配など最小限の仕事に絞られていく。
メンバーのキャラクターをクローズアップすることで司会者だけでなくメンバー全員を主役とする新しいスタイルに移行した結果である。司会就任後しばらくは視聴率面で苦戦を続けたものの、こうした番組作りの変化が功を奏し次第にかつてのような人気番組の地位を取り戻し大長寿番組となる。

大喜利メンバー全員で一つのファミリーを形成しているとの考えを持ち、メンバーの入れ替えはほとんどやらなかった。
23年間司会を務めながらその間に新加入した大喜利メンバーは三遊亭小遊三と林家たい平の2人だけ。
1988年に弟子の三遊亭好楽が復帰してからはたい平が加入するまで16年間メンバーチェンジなしで通した。

2001年2月11日の放送で本来3問行われる大喜利を2問で終わらせようとしてしまった。→大喜利のねた
2005年10月13日に脳梗塞の症状が現われ入院し、10月16日分の放送を最後に番組を休養。
2006年1月1日放送の新春14時間特番『大笑点』の終盤で久々のテレビ出演こそ果たしたものの、万全の体調ではなく無理を押しての出演であった。
2006年3月18日から笑点の収録に復帰したもののやはり体調が万全でなく、冒頭の案内部分のみで大喜利司会には復帰できなかった。
2006年5月14日放送分(4月22日収録)の放送開始40周年特番を最後に勇退し、歌丸に司会の座を正式に譲った。
2006年6月5日、『徹子の部屋』(テレビ朝日)にて落語家として引退はせず、後輩の指導にあたると発言した。
2006年7月20日放送の『クイズ$ミリオネア』(フジテレビ)では、林家木久蔵(現:林家木久扇)の応援としてVTR出演した。

2007年1月1日に放送の『大笑点』では、降板後では初めてゲスト出演。
2008年3月9日には高座・テレビ引退後久々に弟子の真打昇進披露口上のため『笑点』出演となったが、体調を考慮して三本締めの音頭は惣領弟子三遊亭鳳楽が行った。

大喜利
後任司会者の歌丸曰く「圓楽さんに逆らえる人間は落語界にはいない」
大喜利メンバー時代初期は挨拶の際「湯上がりの顔です」と言い、一旦降板直前頃には「星の王子さま」と言っていた。
メンバー時代に座布団10枚獲得した経験があるが、その内容は「イギリスに行って本場のダービーが見られるが、旅費は自腹(結局キャンセル)」「メンバーから胴上げされる(落とされて足をくじいた)」などのろくでもないものばかりだったという。(座布団10枚の賞品は、しゃれがきつくて、ろくなものがない。)

媚に弱く、大喜利メンバーが圓楽を称えるヨイショをすると「山田君、座布団持ってくるのが遅いんだよ!」や「山田君、こういう時はすぐに座布団を持ってくるもんだよ!」などと言う。

「ガハハ!」という豪快な笑い声が特徴で、木久蔵(現・木久扇)が与太郎(=バカ)ネタを披露すると決まって大笑いした後「バカだねぇ~」とあきれる。
また、歌丸が木久蔵の与太郎(=バカ)ネタを披露されたのを嘆き「ね、ね。換えようよぉ~バカがうつるよぉ~」と訴えられると「我慢しなさい。木久ちゃんはあれが持ち味なんです」とたしなめる。(ちなみに、逆隣は、原黒楽太郎)

お下劣系(下ネタ・不潔ネタなど)を好まず小遊三のエロネタやこん平の肥溜めネタには「下品だよ~」とあきれ、ひどい場合には「○枚(あるいは全部)持っていきなさい」と言っていた。

座布団運びの山田君ネタが出た際は「山田君、任せます」と山田に委ねる事が多い。

引き際
2007年2月25日に落語会「国立名人会」の後の記者会見で現役引退を表明した。圓楽はこの高座に自分の進退をかけ本番の半年前から稽古をして臨んだが口演後、その出来に納得がいかずに引退を決意した。
引退記念の高座が予定されていなかった事から、この日演じた『芝浜』が最後の高座となった。

2007年4月1日放送「いつみても波瀾万丈」の出演を以って、テレビ出演の引退も表明した
(2008年3月9日放送『笑点』には弟子の真打昇進披露口上のため特別出演した)。
なお、日本香堂のCMは1967年から2009年まで出演を継続していた。生前の圓楽の言によれば「ギャラもらってるからね」という理由でCMのみの出演を続けていたとのことであった。

2007年11月に胃癌の手術
2008年3月には肺癌の手術

2008年8月、愛弟子の楽太郎に6代目圓楽の名跡を襲名させることが明らかとなった。
当代圓楽は「私はもう落語家を引退した身ですから」として楽太郎の6代目圓楽襲名後は落語界から完全に引退し、隠居することを表明していた。名前については本名の「吉河寛海」に戻すことを明らかにしたが、「師匠が落語家でなくなってしまうのは嫌だ」という楽太郎の反対により「5代目圓楽」「6代目圓楽」とを並立させる予定であった。

2009年10月29日、5代目圓楽は肺癌のために逝去。(哀悼のコメントは、別途掲載。)

逝去の一報を受けた日本香堂は自社のホームページにて哀悼の意を表した。

 5代目三遊亭圓楽 師匠のご冥福をお祈りいたします。→


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タグ : 三遊亭圓楽 5代目 逝去 6代目 笑点

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2015/01/27(火) 13:33 | | #[ 編集]
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