2008/07/19(土)
野茂 英雄 : プロ野球選手。
驚異の奪三振率から「ドクターK」の異名を持つ。
☆学校時代
小・中学校時代の野茂は全くの無名選手であった。
この頃すでに「体を捻って投げると直球の威力が増す」と考え、トルネード投法であった。
名門野球部は、『そんな体を捻る投球フォームじゃ、絶対大成しない』と断言。
甲子園とは縁の無い公立高校に進む。
成城工高時代には2年生からエースとなり、選手権大会大阪府予選では2年生の時に完全試合(2回戦、対生野高)、3年生の時はベスト16(5回戦)。
☆ノンプロ時代
高校卒業時、すでに近鉄から誘いがあったが断った。
ノンプロ・新日鐵堺へ入社。
新日鐵堺での1年目、野茂は「伝家の宝刀」フォークボールを習得。
2年目日本代表に選ばれ、1988年のソウルオリンピックでの銀メダルに貢献する。
日本プロ野球時代。
1989年のドラフト会議で、史上最多の8球団(阪神、ロッテ、ヤクルト、大洋、ダイエー、日本ハム、オリックス、近鉄)から1位指名を受け、抽選で近鉄が交渉権を獲得した。
#縁ですね。
契約金は史上初の1億円突破、年俸1000万円。契約時、投球フォームを変更しないという特約付き。
1990年4月10日、対西武戦でプロ初登板(藤井寺球場)。
1990年4月29日、対オリックス戦(西宮)に先発し初勝利した(プロ4試合目)。
完投で17奪三振の1試合奪三振数日本タイ記録(当時)を樹立し、「ドクターK伝説」の幕開けとなった。
この年、新人ながら
最多勝利
最優秀防御率
最多奪三振
最高勝率
ベストナイン
新人王
沢村賞
MVP
と、タイトル総なめ。プロ野球界に「旋風(トルネード)」を巻き起こした。
1990年〜1993年の4年間、最多勝利と最多奪三振のタイトルを独占。
1994年、複数年契約と代理人制度を希望したが、拒否されたため近鉄を退団。
メジャーリーグに挑戦する。自由契約ではなく任意引退扱いなので日本プロ野球界に帰った場合、近鉄に保有権があることになった。(2005年以降は近鉄と合併したオリックスに保有権がある。)
[この近鉄との確執は、続きを読んでください。]

☆メジャーリーグにおける、壮絶な戦い。
1995年、ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約。年俸980万円。
1995年5月2日にジャイアンツ戦で先発投手としてキャンドルスティック・パークのマウンドに立ち、史上二人目の日本人メジャーリーガーとなった。(初は、村上雅則。)
オールスターでは、先発で出場した。
13勝6敗、236奪三振の成績で新人王、奪三振王。
日米両国で新人王を受賞したのは(2008年まで)野茂ただ1人である。
1996年9月17日の対ロッキーズ戦でノーヒット・ノーランを達成。
1998年4月28日に、日本人メジャー1号本塁打
ニューヨーク・メッツにトレード
1999年、開幕直前にメッツから解雇され、シカゴ・カブスとマイナー契約。
ミルウォーキー・ブルワーズにトレード。
2000年、デトロイト・タイガースにトレード。
日本人初の開幕投手になり勝利した。
2001年、ボストン・レッドソックスにトレード。
2001年4月4日の対ボルチモア・オリオールズ戦でノーヒットノーランを達成。両リーグでのノーヒットノーランはノーラン・ライアン以来メジャー史上4人目。20世紀、21世紀と世紀を跨いで記録したのは野茂とランディ・ジョンソンだけ。(ちなみに、21世紀最初。)
(下記、YouTubeをご覧ください。)
2002年、ロサンゼルス・ドジャースにトレード。
2004年、11月初めにフリーエージェントを申請。
2005年はタンパベイ・デビルレイズとマイナー契約。
2005年6月15日のブルワーズ戦で7回2失点、日米通算200勝を達成する。
2005年7月16日に戦力外通告を受け、10日後に解雇。
2005年7月27日、ニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約。
2006年3月3日にシカゴ・ホワイトソックスとのマイナー契約。
2006年4月17日、3Aシャーロット・ナイツの先発として初登板。
右ひじの炎症を理由として故障者リストに登録される。
2006年6月8日、契約解除。同月下旬には右ひじを手術した。
2007年、ベネズエラのカラカス・ライオンズに入団。
2007年10月20日のグアイラ戦で、1回1イニング登板。被安打1、三振0、四死球0、失点0。
2008年1月4日にカンザスシティ・ロイヤルズとマイナー契約。
2008年4月5日にメジャー昇格の後、同月10日登板。
2008年4月20日にロイヤルズから戦力外通告
2008年7月17日、現役引退を表明。
引退表明に対する反応。
ロサンゼルス・ドジャーズの本拠地の地元紙、ロサンゼルス・タイムズ(電子版)は「革新的とも言える移籍で日本人選手への扉を開いた野茂が引退を表明した」と報道。「ノモマニア」と呼ばれた熱狂的なファンが生まれたことや、史上4人目のア、ナ両リーグ方でのノーヒットノーラン達成など、米国での活躍ぶりを紹介した。
カナダの全国紙ナショナル・ポストは電子版で野茂引退の一報を掲載。
フランスのAFP通信は東京発でこのニュースを打電した。
ヤンキースの松井秀喜外野手は「今日、大リーグで日本人選手が活躍できているのは、野茂さんの大きな力によるものだと思う」と球団広報を通じてコメント。「違った形でのこれからのご活躍をお祈りします」
カブスの福留孝介外野手は、「自分が今こうしてプレーしているのは、野茂さんの影響があるから」。
野茂がドジャース入団時に監督だったトミー・ラソーダ氏は「彼の投球はセンセーショナルだった。大勢の人々を球場に呼び込んだよ。特にロサンゼルスでは」と述懐した。同氏はさらに「マウンド上でいつも精魂込めて投げてくれた。将来の大リーグ殿堂入りを願っている」と語った。

☆オーナー活動
2003年、企業チームが次々に廃部となっており、野球を志す若者に対し少しでも受け皿になれればと、大阪府堺市で社会人野球のクラブチーム「NOMO ベースボールクラブ」を設立し、オーナーに就任。
2004年に社会人野球の全国統括組織「日本野球連盟」に加盟。
2005年には都市対抗野球に初出場、全日本クラブ選手権ではクラブチーム日本一に輝いた。
アメリカの独立リーグ・ノース・イーストリーグのエルマイラ・パイオニアーズを元近鉄の佐野重樹らと運営している。
ドジャースから勝ち星を挙げれば、史上2人目の「メジャー全30球団から勝利」を達成していたが、未達成のまま08年夏引退。
#てことは、残りの29球団から勝ち星取ってたんだ。すげ〜〜。

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野茂英雄 2001年ノーヒットノーラン 9回投球 1アウトから。
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驚異の奪三振率から「ドクターK」の異名を持つ。
☆学校時代
小・中学校時代の野茂は全くの無名選手であった。
この頃すでに「体を捻って投げると直球の威力が増す」と考え、トルネード投法であった。
名門野球部は、『そんな体を捻る投球フォームじゃ、絶対大成しない』と断言。
甲子園とは縁の無い公立高校に進む。
成城工高時代には2年生からエースとなり、選手権大会大阪府予選では2年生の時に完全試合(2回戦、対生野高)、3年生の時はベスト16(5回戦)。
☆ノンプロ時代
高校卒業時、すでに近鉄から誘いがあったが断った。
ノンプロ・新日鐵堺へ入社。
新日鐵堺での1年目、野茂は「伝家の宝刀」フォークボールを習得。
2年目日本代表に選ばれ、1988年のソウルオリンピックでの銀メダルに貢献する。
日本プロ野球時代。
1989年のドラフト会議で、史上最多の8球団(阪神、ロッテ、ヤクルト、大洋、ダイエー、日本ハム、オリックス、近鉄)から1位指名を受け、抽選で近鉄が交渉権を獲得した。
#縁ですね。
契約金は史上初の1億円突破、年俸1000万円。契約時、投球フォームを変更しないという特約付き。
1990年4月10日、対西武戦でプロ初登板(藤井寺球場)。
1990年4月29日、対オリックス戦(西宮)に先発し初勝利した(プロ4試合目)。
完投で17奪三振の1試合奪三振数日本タイ記録(当時)を樹立し、「ドクターK伝説」の幕開けとなった。
この年、新人ながら
最多勝利
最優秀防御率
最多奪三振
最高勝率
ベストナイン
新人王
沢村賞
MVP
と、タイトル総なめ。プロ野球界に「旋風(トルネード)」を巻き起こした。
1990年〜1993年の4年間、最多勝利と最多奪三振のタイトルを独占。
1994年、複数年契約と代理人制度を希望したが、拒否されたため近鉄を退団。
メジャーリーグに挑戦する。自由契約ではなく任意引退扱いなので日本プロ野球界に帰った場合、近鉄に保有権があることになった。(2005年以降は近鉄と合併したオリックスに保有権がある。)
[この近鉄との確執は、続きを読んでください。]

☆メジャーリーグにおける、壮絶な戦い。
1995年、ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約。年俸980万円。
1995年5月2日にジャイアンツ戦で先発投手としてキャンドルスティック・パークのマウンドに立ち、史上二人目の日本人メジャーリーガーとなった。(初は、村上雅則。)
オールスターでは、先発で出場した。
13勝6敗、236奪三振の成績で新人王、奪三振王。
日米両国で新人王を受賞したのは(2008年まで)野茂ただ1人である。
1996年9月17日の対ロッキーズ戦でノーヒット・ノーランを達成。
1998年4月28日に、日本人メジャー1号本塁打
ニューヨーク・メッツにトレード
1999年、開幕直前にメッツから解雇され、シカゴ・カブスとマイナー契約。
ミルウォーキー・ブルワーズにトレード。
2000年、デトロイト・タイガースにトレード。
日本人初の開幕投手になり勝利した。
2001年、ボストン・レッドソックスにトレード。
2001年4月4日の対ボルチモア・オリオールズ戦でノーヒットノーランを達成。両リーグでのノーヒットノーランはノーラン・ライアン以来メジャー史上4人目。20世紀、21世紀と世紀を跨いで記録したのは野茂とランディ・ジョンソンだけ。(ちなみに、21世紀最初。)
(下記、YouTubeをご覧ください。)
2002年、ロサンゼルス・ドジャースにトレード。
2004年、11月初めにフリーエージェントを申請。
2005年はタンパベイ・デビルレイズとマイナー契約。
2005年6月15日のブルワーズ戦で7回2失点、日米通算200勝を達成する。
2005年7月16日に戦力外通告を受け、10日後に解雇。
2005年7月27日、ニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約。
2006年3月3日にシカゴ・ホワイトソックスとのマイナー契約。
2006年4月17日、3Aシャーロット・ナイツの先発として初登板。
右ひじの炎症を理由として故障者リストに登録される。
2006年6月8日、契約解除。同月下旬には右ひじを手術した。
2007年、ベネズエラのカラカス・ライオンズに入団。
2007年10月20日のグアイラ戦で、1回1イニング登板。被安打1、三振0、四死球0、失点0。
2008年1月4日にカンザスシティ・ロイヤルズとマイナー契約。
2008年4月5日にメジャー昇格の後、同月10日登板。
2008年4月20日にロイヤルズから戦力外通告
2008年7月17日、現役引退を表明。
引退表明に対する反応。
ロサンゼルス・ドジャーズの本拠地の地元紙、ロサンゼルス・タイムズ(電子版)は「革新的とも言える移籍で日本人選手への扉を開いた野茂が引退を表明した」と報道。「ノモマニア」と呼ばれた熱狂的なファンが生まれたことや、史上4人目のア、ナ両リーグ方でのノーヒットノーラン達成など、米国での活躍ぶりを紹介した。
カナダの全国紙ナショナル・ポストは電子版で野茂引退の一報を掲載。
フランスのAFP通信は東京発でこのニュースを打電した。
ヤンキースの松井秀喜外野手は「今日、大リーグで日本人選手が活躍できているのは、野茂さんの大きな力によるものだと思う」と球団広報を通じてコメント。「違った形でのこれからのご活躍をお祈りします」
カブスの福留孝介外野手は、「自分が今こうしてプレーしているのは、野茂さんの影響があるから」。
野茂がドジャース入団時に監督だったトミー・ラソーダ氏は「彼の投球はセンセーショナルだった。大勢の人々を球場に呼び込んだよ。特にロサンゼルスでは」と述懐した。同氏はさらに「マウンド上でいつも精魂込めて投げてくれた。将来の大リーグ殿堂入りを願っている」と語った。

☆オーナー活動
2003年、企業チームが次々に廃部となっており、野球を志す若者に対し少しでも受け皿になれればと、大阪府堺市で社会人野球のクラブチーム「NOMO ベースボールクラブ」を設立し、オーナーに就任。
2004年に社会人野球の全国統括組織「日本野球連盟」に加盟。
2005年には都市対抗野球に初出場、全日本クラブ選手権ではクラブチーム日本一に輝いた。
アメリカの独立リーグ・ノース・イーストリーグのエルマイラ・パイオニアーズを元近鉄の佐野重樹らと運営している。
ドジャースから勝ち星を挙げれば、史上2人目の「メジャー全30球団から勝利」を達成していたが、未達成のまま08年夏引退。
#てことは、残りの29球団から勝ち星取ってたんだ。すげ〜〜。
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野茂は近鉄への入団条件に「投球フォーム(トルネード投法)の改造をしないこと」を挙げた。
仰木彬監督はあっさり了承し、調整方法も野茂に任せることにした。
野茂は仰木を信頼するようになった。
後任の鈴木啓示監督はフォームや調整法など様々なことに関して一方的に野茂に干渉するようになった。
・野茂は開幕戦で調子が整えばそれで良い⇔鈴木はオープン戦から結果を要求
・野茂は立花コーチとのマンツーマンの指導形態で、遠投など自己流でスタミナを作っていた
⇔鈴木はひたすら走りこむことを要求
・「では一体何周走ればいいんですか?」
「何周とかと違う。野球選手はひたすら走るもんなんや」と根性論を押し通した。
鈴木の要求する走りこみと、立花コーチの指導するメニューと、その運動量を科学的に比較する検証が行われたことがあったが、立花コーチのメニューのほうが多かった、という結果が出た。
結果として野茂は鈴木を毛嫌いするようになり、近鉄退団の大きな理由になった。
#上司との考え方の違いは、決定的なことになりやすい。
#仰木彬さんて、凄い人だよね。
鈴木監督就任直後、ラジオ番組で、野茂に関して「今のフォームではいずれ通用しなくなる。そのときに私に頭を下げてこられるかどうかだ」と述べ、完全に野茂のフォームを否定していた。
結果は、メジャーリーグの「Dr.K」。
鈴木は指導者としての評価を著しく下げてしまう結果となった。
些細なことだが、色々な不満があった。
・先発する日に自分で車を運転して藤井寺球場に行き、駐車場に車を止めた。すると球団関係者が近付いて来て、近鉄本社の人間が来るので車を動かすことを要求された。
・契約更改の席で、フロントから「熾烈な優勝争いをして2位に終わるのが一番」と言われた。
・最多勝を獲得したのに年俸が上がらなかった。 (これは、ひどいんじゃない?)
近鉄との確執に関連して「自分を信頼してくれた仰木さんを胴上げするためにチームに貢献しようと頑張っていたが、仰木さんが近鉄監督を辞められたことでその気持ちは薄れてしまった」と語った。
近鉄投手陣は立花龍司トレーニングコーチに絶大な信頼を寄せていた。しかし近鉄フロントは一方的に立花コーチを解雇したため、近鉄投手陣はフロントに反感を持った(これに怒った一人が吉井理人で、トレードに出される理由になったとされる)。
1994年オフ、
複数年契約と代理人制度(代理人は団野村)を近鉄に要求。
近鉄側は、野茂が肩を故障してシーズン後半に登板できなかったのを理由に拒否
球団社長はマスコミに「年俸をもっとよこせ、ということでしょう」と述べ、
「年俸吊り上げのためのもの」、「わがまま」と捉え、
「次の更改ではサインするでしょう」などと楽観視していた。
野茂は「お金の問題じゃないんです」と、再三マスコミに訴えていたが、マスコミも近鉄の意見に同調。野茂は孤立していた感があった。
結局、近鉄フロントは、野茂が近鉄でプレーする気がないのなら、野茂を移籍に出したり自由契約にするのではなく任意引退扱い(近鉄を自由契約にならない限り、他の日本の球団でプレーすることは不可能)にしようとした。これが最大の理由となって、野茂は渡米する決意をした。
1994年オフ、近鉄球団は契約更改の場で野茂を「君はもう近鉄の顔ではない。」と言い放ったが。
1995年、ストライキ明けでファン離れの進んでいたメジャーリーグのファンを呼び戻す救世主となった。
2004年にその近鉄球団はオリックスに吸収された。
#奇しくも、10年一昔。
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