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原辰徳:WBC日本代表チーム監督

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2009/03/24(火)
原辰徳:元野球選手
原辰徳0

東海大相模高時代には1年生から三塁手のレギュラーとして活躍。夏の甲子園に3年連続で出場し、1975年の春の甲子園にも出場している。(このときは、準優勝。)
ちなみに、父、原貢氏が、監督を務める親子鷹。


1976年のプロ野球ドラフト会議の目玉だったが、原はドラフト直前にプロ入りを拒否し、東海大学への進学を表明。
全球団から指名無しという異例の事態となった。
ドラフト直後に巨人のオーナー正力亨と監督長嶋茂雄が「原の獲得に乗り出す」と言明、特に正力が「すでに手は打ってある」と発言した(読売のやりそうなこった。)
それを聞き、東海大学総長が激怒。記者会見を開き
「私の目の黒いうちは原はプロには行かせない、もしプロに行くようなことがあれば原君も死ぬことになる」などと発言し、ちょっとした騒動になった。

東海大学は発足したばかりの首都大学野球連盟に加盟していたが、原目当てのファンが殺到する事態に備えて、加盟校のグラウンドで行われていた試合に加え、川崎球場や横浜スタジアムなどを利用した。
首都大学リーグでは3度の最高殊勲選手、1年生秋のリーグを除く7度のベストナインを獲得。2年生秋と4年生春の2度の打撃三冠王になる。リーグ通算93試合出場、362打数144安打、打率.398、21本塁打、105打点。

1980年、日本で開催されたアマチュア野球世界選手権に、大学生としてただひとり日本代表選手に選出され出場した(3位入賞)。

1980年 プロ野球ドラフト会議において、読売ジャイアンツの藤田元司新監督が4球団競合の末に1位クジを引き当て、巨人に入団。背番号は、高田繁の引退に伴い空いた「8」。

1981年 開幕からスタメン出場、デビュー戦で中日ドラゴンズの牛島和彦から初安打、翌日には小松辰雄から初ホームランを放つ。シーズン当初は二塁手だったが、中畑の怪我により三塁手となり、レギュラーに定着。22本塁打を放ち新人王を獲得。以後12年連続20本塁打以上を記録。

1982年には本塁打数を33に伸ばし、最多勝利打点を獲得。本塁打は2本差、打点は3打点差で、共に掛布に次いで2位。

1983年は初めて打率3割を記録、打点王、最多勝利打点を獲得して巨人の優勝に貢献、MVPに選ばれた。巨人での3割30本塁打100打点は青田昇、長嶋茂雄、王貞治に次ぐ球団史上4人目の快挙だった。
原辰徳3 ⇒ Ranking

1986年9月24日、対広島25回戦で津田恒実の直球をファールした際に左手首の有鉤骨を骨折、残り試合の欠場を余儀なくされた。
この骨折は「事実上、バッター原辰徳は、この骨折の時に終わりました」と後に自らが発言するほどの影響があった。しかし原は後年「あの時の津田との勝負に悔いはない」と、当時から現在に至るまで繰り返し語っている。

1987年、3割30本塁打を記録。
1988年、3割30本塁打を記録。

1989年藤田監督により、左翼手へ転向。同年、デビューから9年連続20本塁打の新記録を達成した。
日本シリーズの近鉄バファローズ戦(第5戦)において、近鉄の吉井理人は4番クロマティを敬遠し、満塁策をとり、第4戦まで無安打の原と勝負する作戦。しかし、原はこのシリーズ初安打となる満塁本塁打を打った。

1992年、一塁手へ転向。

1993年、長嶋茂雄監督により、三塁手に再コンバート。複数個所の故障に悩まされ、プロ入り以来12年続けていた規定打席到達も途切れ、引退した年を除いてプロ入り以来最低の成績に終わった。

1995年現役引退。現役引退試合は、8月に開催された広島戦の延長15回引き分け再試合が10月8日に組み込まれたことにより実現した。セレモニーを含めた引退試合は東京ドームのスケジュールの都合上、デーゲームでの開催となった。
現役最後の試合では、紀藤真琴から左中間スタンドへの本塁打を放つ。最終打席では、広島側の粋な計らいで大野豊がワンポイントで登板し名対決が最後に行われた(結果はレフトフライ)。
巨人一筋15年、ON後の巨人を牽引した四番打者に対し、背番号8を“永久欠番”にとの署名が多く集まり、巨人は“準永久欠番”に制定。

1996年にNHKの野球解説者に就任。プロ野球中継の解説の他、NHK総合テレビの『サンデースポーツ』でメインキャスターを1999年3月まで務める。
原辰徳1 ⇒ Ranking

1999年、長嶋監督のもと、巨人の野手総合コーチに就任し球界復帰。
2000年ヘッドコーチに昇格。

2001年9月27日、長嶋監督に監督室に来るよう命じられ「来年からは原(監督)だ。」と言われる。原はこの年はヘッドコーチだったが実は1998年のシーズン終了後、長嶋は次期監督を原にすることをオーナーと水面下で話を進めていた。勇退した長嶋茂雄の後任として巨人監督に就任(長嶋は10月1日の最終戦まで指揮)。
2001年9月27日、監督に就任。(ただし、10月1日の最終戦まで長嶋が指揮)背番号は83。自分の現役時代の「8」と長嶋の「3」を足した数字であるので選んだと言っている。

2002年、引退も考えていた桑田真澄の先発復帰、故障で一軍から離脱していた河原純一のストッパー転向、長嶋政権下ではスタメンを外れることの多かった清水隆行の1番起用など大胆な選手起用を行い、就任1年目にしてリーグ優勝に導いた。
2002年の日本シリーズでは西武ライオンズ相手に球団史上初の無傷の4連勝という快挙でもあった。

2003年3位に終わり、三山秀昭球団代表との確執もあって、“人事異動”の名目で監督を辞任。巨人軍特別顧問に転任した。

2005年、堀内恒夫監督が成績不振により引責辞任。後任として監督に再任される。背番号は88。

2006年 開幕ダッシュには成功したが、交流戦中盤から8連敗、10連敗、9連敗などの大型連敗(他に敵地18連敗、保護地域外26連敗等)。8月4日にはついに最下位に転落。最終的に4位で終わる。
オフには、黄金期西武ライオンズの頭脳であった伊原春樹が切り札として招聘された。
2006年の選手の相次ぐ怪我による離脱を踏まえ「もういい選手はいらない、強い選手が欲しい」と発言。若手脇谷亮太の頑健さを絶賛する一方、生え抜きレギュラー陣の短期離脱を厳しく叱責している。

2007年 5月2日のナゴヤドームの中日ドラゴンズ戦で創設後通算5,000勝を達成した。大接戦のペナントレースを制した。しかし、セ・リーグのクライマックスシリーズセカンドステージで、ペナントレース2位の中日に初戦から3連敗を喫し、日本シリーズ出場を逃した。

2008年、リーグ戦では、一時は阪神タイガースに13.5ゲーム差をつけられた。(タイガースファンは、当然優勝する気でいた。)オリンピック北京大会の前後から勝ち進み、9月の12連勝で首位に迫り、10月8日に阪神を逆転して首位に立つと、10月10日に2年連続リーグ優勝を達成した。
そしてクライマックスシリーズセカンドステージでは、中日を相手に、アドバンテージの1勝を含む3勝1敗1分で日本選手権シリーズ進出を決めた。予定外の胴上げ(8回)があり、インタビューでは目を潤ませていた。
しかし、直後の日本シリーズではパ・リーグの覇者埼玉西武ライオンズ相手に3勝4敗で敗退した。

北京オリンピックでの星野ジャパンの不振・王監督の固辞から、WBCの監督人事が迷走し、最終的に、原氏に声がかかり、10月28日、日本プロ野球機構より2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督への就任を要請され受諾。
愛称は「侍JAPAN」背番号は83に決定。
2009年3月24日の決勝戦で韓国を5-3で破り、日本を大会2連覇に導いた。
#WBCのシステムは複雑なので、途中の試合に関しては、略。ただ、韓国と5試合戦い、初顔合わせは、コールド勝ち。通産3勝2敗だったことを記述するにとどめる。


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タグ : 原辰徳 ジャイアンツ 生え抜き 野手 三塁手 監督 4番バッター WBC 侍ジャパン監督

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